山田長政を5分で!アユタヤ日本人町ってどんな所?子孫はいる?

山田長政(やまだながまさ)と、いえば、江戸時代初期にシャム(現・タイ王国)で、活躍した人物です。

武士に憧れて商人を夢見て、アユタヤ日本人町のリーダーとなり、最後はリゴール王となりました。

今回、山田長政のかんたんな経歴アユタヤ日本人町ってどんな所?子孫はいる?について、紹介していきますよ。

 

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山田長政、プロフィール

名前:山田 長政(やまだ ながまさ)
通称 仁左衛門(にざえもん)
シャム名:セーナーピムック(せーなーぴむっく)
出身地:駿河国(現・静岡県)
生誕:1590年頃
死没:1630年
享年:41歳(毒殺)
時代:江戸時代

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

1590年、山田長政(やまだ ながまさ)は、駿河国(静岡県)に生まれました。

紺屋(染物屋)を営む家に生まれますが、武士に憧れて育ちます。

沼津藩主(現・静岡県沼津市)の大久保忠左(おおくぼただすけ)のもとで、駕籠(かご)かきをします。

駕籠かきとは、駕籠に人を乗せて運ぶ末端の武士でした。

 

政は、武士として出世することを意気込んでいましたが、「関ケ原の戦い」が終わり、徳川家康率いる天下泰平の世が目の前に訪れようとしていた為、武士として生きることを諦めます。

そして今度は、商人として成功する事を夢みて、海外に憧れるようになったのです。

 

1612年、朱印船(しゅいんせん)に乗り、シャム(現・タイ王国)のアユタヤ(王都)に渡りました。

朱印船とは、日本の貿易船が諸外国から海賊船や密航船と間違われることを防ぐために、江戸幕府が発行した貿易の許可証である「朱印状」を持った船の事です。

鎖国のイメージが強い江戸時代ですが、鎖国がきっちり始まるのは第3代将軍家光の時代からで、家康は貿易に積極的でした。

家康の目的は、良い香りが漂う伽羅(きゃら)という香木を輸入することだったのです。

 

朱印船のメンバーには、商人だけでなく「関ケ原の戦い」で主君を失った浪人もたくさんいました。

当時のアユタヤは、江戸やロンドンに引けを取らない人口15万人の大都市で、貿易によって活気が溢れ、繁栄していました。

ピーク時には、日本の他に約40カ国の人が住む国際都市だったのです。

 

貿易で繁栄した経済力のあるアユタヤは、近隣諸国からそしてスペインから支配下に置こうと狙われていました。

長政たち日本人は、商人として貿易をしながら、いざという時には、アユタヤの傭兵(雇われ兵)として活躍していたのです。

戦国時代に戦の経験を持つ浪人たちは、即戦力となりアユタヤ王朝を守ります。

その即戦力となった日本人を率いたのが長政でした。

そして約1500人居た日本人町のリーダーとなったのです。

 

1629年、スペインの侵攻を2度も撃退させた長政は、シャムアユタヤ王朝のソンタム国王より、絶大なる信頼を受け、なんと王女と結婚します。

オークヤー(大臣のような立場)となりセーナーピムックという名前を貰い大出世をします。

 

かし、ソンタム国王が亡くなると、後継者争いが起こり巻き込まれます。

長政は兵を率い、ソンタム国王の遺言通りに、ソンタム国王の子・チェーター親王を即位させます。

が、王位を狙っていたシーウォーラウォンは、防衛を理由に、長政をリゴール(アユタヤ王朝支配下の国、現・ナコーン・シータマラート)の王に命じたのです。

王朝での地位、貿易商としての財力を持った長政は、今以上の権力を持つことに、恐れられたのです。

 

リゴール王として、他国からの度重なる侵攻を防ぎ上手く統治していました。

が、侵攻は続きます。

1630年、度重なる戦いで太ももに傷を負い、傷口に毒を塗られ毒殺されたのでした。

この毒殺は、後継者を巡って争ったシーウォーラウォンによるものとされています。

 

アユタヤ日本人町ってなに?どんなところ?

ユタヤ日本人町とは、1300年代から1800年代までシャム(現・タイ王国)のアユタヤ(王都)にあった日本人が暮らした町です。

特に長政がアユタヤに渡った1600年頃は、人口もピークを迎え1500人の日本人が、貿易商や傭兵として過ごしていました。

外国からの攻撃に備え軍事力を高めたいアユタヤ王朝と、「関が原の戦い」や「大坂の陣」で行き場を失った浪人の軍事力がマッチしたのです。

 

米や日本酒もあり、宗教も自由で、貿易で財を成し、時々傭兵でアルバイトをする生活は、異国にも関わらず伸び伸びとしていました。

しかし長政亡き後は、日本人の反発を恐れ、町は焼かれます。

その後、海外に逃亡し生き延びた日本人が再び集結し、アユタヤ日本人町を作り貿易をします。

しかし、日本は鎖国に入り、新たにアユタヤに渡る人が居ないために、どんどん衰退していったのでした。

 

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現代も子孫はアユタヤにいる?

田長政の子孫はアユタヤにいるのでしょうか。

毒殺されてしまった長政の跡を継いだのが、息子のオクンでした。

諸説ありますが、リゴール王として活躍しようとした矢先に、リゴール人と日本人のトラブルが起こり、息子のオクンは殺されました。

残念ながら、アユタヤ日本人町も焼き払われており、アユタヤに長政の子孫がいる可能性は非常に低そうです。

 

そして、長政がアユタヤに渡ったのは、20歳の頃です。

日本に妻子を残していった可能性もありますが、鎖国をしていた日本で異国に渡った父を語る事はタブーとされた事から、子孫を語る人物はいないようです。

 

まとめ

幼少期は、武士に憧れていたのに、時代の流れを読み商人を夢見て、貿易商として成功を収め、アユタヤ王朝から官位を貰えた優れた人物です。

最期は、リゴール王となるも毒殺されてしまいましたが、鎖国の時代に、異国で歴史に名を残した山田長政の人生は天晴れです。

 

ということで、
山田長政を5分で!アユタヤ日本人町ってどんな所?子孫はいる?でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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