島津義弘(しまづよしひろ)といえば、戦国ゲームでも強く人気のある人物ですね。
戦国最強と言われ、あの有名な関ヶ原の戦いで敵の中を突破するほどの武将だったのです。
今回、島津義弘のかんたんな経歴、戦国最強説について、関ヶ原の戦いでの敵中突破について紹介していきますよ。
島津義弘、プロフィール
島津義弘(しまづよしひろ)
出身地:薩摩(鹿児島県)
生誕:1535年7月23日
死没:1619年7月21日
享年:85歳
時代:室町時代(戦国時代)-安土桃山時代-江戸時代
何した人?どんな人?
島津義弘は、戦国最強ともいわれている、めっちゃ強い武将です。
ここでは、島津義弘のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
島津義弘は、いわゆる戦国時代の武将です。
薩摩の国(今の鹿児島県)に生まれ、戦国時代では珍しく85歳まで生きました。
のちに剃髪して惟新斎(いしんさい)と呼ばれます。
19歳で初陣を飾ると、22歳で初めて敵大将の首級を挙げるなど最強の片鱗を見せ始めます。
豊臣体制では朝鮮へ出兵し、水軍と戦い敵の大将を討ち取り、30000人の大軍を7000人で打ち破るなどの功績を挙げました。
朝鮮・明軍からは「鬼石曼子(鬼島津)」と呼ばれ恐れられていました。
関ヶ原の戦いでは、石田三成ら西軍に参戦しましたが、味方軍が敗走を始めたのが原因で島津義弘率いる島津軍は敵中に孤立する事態に陥りました。
島津義弘は正面から撤退をすることを決め、目の前の大軍の敵の中を突破することに成功します。
85歳で死去した時には、義弘の後を追い13名もの家臣が殉死(じゅんし・主君の後を追って自害)したとされ、家臣からとても尊敬を集めていたと思われます。
最強の戦国武将だったって?
島津義弘は、戦国最強の武士と言われています。
体の5か所に矢を受けても戦い続け、日州一の槍突きをうたわれていた柚木崎正家を討ち取るなど「鬼島津」の名も劣らぬ猛将でした。
木崎原の戦では3000の敵に1/10の数の300人で勝利したり、
豊後国(今の大分県)大友宗麟を打ち破ったりと名だたる武勲があります。
あの豊臣秀吉や徳川家康も、島津義弘を恐れていたと言われています。
徳川家康に至っては、島津討伐を決意するも島津義弘を恐れてなかなか攻撃できず、さらに軍の船を島津軍に沈められるなど踏んだり蹴ったりで、結局島津討伐軍は目的を達成することなく撤退しました。
関ヶ原の戦いで西軍だった島津の本領安堵を決定するのは異例の異例だったのです。
戦国最強というのは強いだけではなく、家臣からの信頼も最強でした。
主従分け隔てなく家臣を大切にしていたので、亡くなってからは殉死禁止令が出ていたにもかかわらず、家臣13名が殉死したと言われています。
殉死(じゅんし)とは、主君の死を追って、自害すること。
当時は、殉死禁止令が出ていましたが、尊敬する主君を追って自害することは、美徳とされていたのです。
関ヶ原での敵中突破はほんと?
関ヶ原の戦いは、島津義弘にとって面白くない戦だったでしょう。
なぜなら、島津義弘は徳川家康の東軍に参戦したかったのに、援軍要請を知らされていなかった東軍の鳥居元忠から伏見城の入場を拒否されています。
そうとうショックを受けました。
西軍に参戦したのはいいものの、軍議で自分の策が採用されなかったり、前線に見捨てられたりと戦意喪失するには十分すぎることが続きました。
味方軍が敗走を始めると島津義弘は、退路を失い、敵中に孤立してしまいました。
撤退するには正面の敵の中を突破するしかありません。
島津義弘は、福島正則、井伊直政、松平忠吉と激戦を繰り広げ敵中突破に成功しました。
このときの島津軍の戦法は、「捨て奸」という何人かが敵を足止めし、その何人かが全滅するとさらに何人かが敵を足止めすることを繰り返すという壮絶なものでした。
この非情ともいえる「捨て奸」を行ったからこそ、島津義弘は敵中突破をすることに成功したのです。
まとめ
島津義弘の歴史を紐解くと、戦国最強だった理由がとてもよくわかりました。
武勲だけではなく、自分の奥さんや子どもを大切にするといった愛妻家の面もありました。
少ない人数でも大軍に挑む勇気、敵の中に孤立するという最悪な状況でも最善な方法を見つける決定力、家臣から信頼される求心力、まさに戦国時代のパーフェクトヒューマンだったのです。
ということで、
島津義弘を5分で!戦国最強説はガチ?関ヶ原での敵中突破はほんと?でした。
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