吉田兼見は明智光秀の親友だった!公卿にして、吉田神道宗家当主!

〜公卿にして、吉田神道宗家当主の吉田兼見は明智光秀の親友だった!〜

明智光秀は織田家中でも随一といってよいほどに公卿との交流が広い人物として知られている。

中でも吉田兼見(よしだかねみ)とは親密であったらしく、様々な逸話が残されている。

 

兼見は従三位の公卿にして、吉田神道の当主という肩書も持っている異色の公家である。

考えてみれば、武将としての光秀の経歴も異色であったから、異色な者同士の親交だったとも言える。

さてその関係はいかなるものだったのであろうか。

肖像・吉田兼見
肖像・明智光秀

吉田神道と朝廷での職務

吉田神道はまたの名を卜部(うらべ)神道とも言う。

吉田氏は、そもそも卜部姓を名乗り、亀卜(きぼく)によって神祇官に仕えていた一族であった。

伊豆の卜部氏が、吉田神社に仕えた関係で吉田姓を名乗るようになったらしい。

鎌倉時代中期以降のことだと言われている。

 

吉田神道の教義は鎌倉時代中期に吉田兼方(かねかた)によって整備され始めたというが、これを大成させたのは室町時代の吉田兼倶(かねとも)であるという。

吉田神道は根幹には陰陽道の教義がありながら、老荘思想や仏教思想の影響が見られるというのは興味深い。

吉田神道は諸流派の中で最大勢力となり、神官の大多数を支配下に置いたとされる。

 

吉田兼見はこの吉田神道宗家の9代当主である。

朝廷での官位は従三位神祇大副であるから摂政・関白ほどの権力はないが、神官の世界では最高権力者に近い立場にあったのではないだろうか。

 

『兼見卿記』に見る光秀との親交

神道界の支配者ともいえる吉田兼見は、織田信長明智光秀豊臣秀吉などの戦国武将と広く交流したことで知られるが、光秀とは特に仲が良かったらしい。

吉田兼見の日記『兼見卿記』によれば、1570年11月13日に兼見邸を訪れた光秀は石風呂を所望したという。

石風呂とは、焼いた石に水をかけて蒸気を発生させるサウナに似た風呂のことであるが、この時点でかなり親しげな様子が垣間見える。

 

さらには、1572年の信長上洛に際して、光秀はいち早くその情報を兼見に伝えたという。

そのおかげで、兼見は京で信長を迎える準備に十分時間をかけることが出来、信長を喜ばせることに成功したのである。

また、光秀が坂本城主となってからは毎年茶会を催しているが、兼見はこの茶会に頻繁に参加していたようだ。

 

本能寺の変

1582年6月2日未明、明智光秀が京の本能寺を攻め、織田信長を討ち取った。

世に言う「本能寺の変」である。

 

実はこの日、吉田兼見は本能寺の信長を礼問する予定であったという。

本能寺の変の顛末を聞き及び、兼見は腰を抜かすほど驚いたに違いない。

というのも、『兼見卿記』によれば、兼見は本能寺の変の半年ほど前の1月20日に坂本城にて光秀と面会した際に、かなり上機嫌だったからだ。

 

本能寺の変後、朝廷は光秀支持に動いた。

朝廷と良好な関係を築いていた光秀であれば、信長の後継者として願ったり叶ったりという状況だったのではないだろうか。

『明智光秀公家譜覚書』によれば、この時期光秀は参内して、征夷大将軍任官の宣下をうけたという。

この史料は信憑性が疑問視されているが、朝廷が光秀を信長の後継者として認知していたことを示しているということはできるだろう。

この際、朝廷と光秀との取次役を務めたのが兼見であった。

兼見は6月7日に安土城に入るが、光秀と面会し「今度の謀反の存分」を語り合ったという。

 

『兼見卿記』別本

光秀を次の天下人として認めた誠仁親王は、京の運営を任せる旨を伝えている。

朝廷からお墨付きをもらうなど調停工作は順調に進んでいた一方で、軍勢を集めるという点に関しては想定以上の時間がかかっていた。

これには信長の遺体が見つからなかったことで、信長が生存している可能性が0でないということもあるが、もう1つ大きな理由があった。

その頃、羽柴秀吉が物凄い速度で備中から京を目指して行軍していたのだ。

これが世に言う「中国大返し」である。

光秀が軍勢を整えるのにこれが一番の障害になったのは言うまでもない。

その最たるものが筒井順慶の動静であろう。

 

筒井順慶本能寺の変後、消極的ながら、近江平定までは光秀方として動いているが、羽柴秀吉が猛烈なスピードで京に向かっているという情報を得ると6月10日には秀吉につくことを決意したという。

『兼見卿記』には6月9日夕刻に突如出陣し、下鳥羽まで兵を進めたとある。おそらくこの時点で秀吉の中国大返しの件を知ったのだろう。

この大誤算によって、光秀は山崎の合戦に敗れたと言っても過言ではない。

 

さて、梯子を外された格好となった兼見は、『兼見卿記』に記述された光秀とのやりとりを秀吉に咎められることを恐れた。

そのため、『兼見卿記』を一部書き直すという行動に出ている。

オリジナルのものを別本というが、これには1582年1月から6月12日までの記述しかない。

一方正本とされる日記には1582年1月から12月までの記述が残されている。

それにしても、処分したとされる別本が現存しているというのは不思議なことである。

 

あとがき

本能寺の変の後、安土城に入城した光秀のもとには慶賀の使者が続々とはせ参じたという。

朝廷も光秀を謀反人ではなく、洛中の守護者と認知したことは前述した通りである。

これは信長の扱いに非常に難儀していたことの裏返しであったように思う。

 

兼見も親友であり、朝廷の覚えもめでたい光秀が天下人になってくれれば、いろいろと好都合であったろう。

しかし、この朝廷寄りのスタンスが光秀の敗因の1つであったというのは皮肉という他ない。

(筆者・pinon)

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