義姫の生涯を解説!実は政宗を嫌った「悪女」ではなかった?

義姫(よしひめ)といえば、病気の影響で目に障害を患ってしまった息子の政宗を忌み嫌い、しまいには彼の毒殺を試みて伊達家を追放された「悪女」という評判が立っている女性です。

しかしながら、近年の研究で「そもそも義姫が政宗を本当に殺そうとしたのか」という点についても疑問が抱かれているだけでなく、頭脳明晰で行動力のある女性としての義姫像が浮かび上がりつつあります。

そこで、この記事では「悪女」という評判にとらわれない、義姫の実像を解説していきます。

 

明晰な頭脳と行動力で政治にも参画した

義姫は、天文17年(1548年)に山形城主である最上義守の娘として生まれました。

彼女の二歳下にはあの最上義光が弟として生まれており、この関係性は後々まで重要になってきます。

 

義姫は政略結婚の一環として近接する米沢を拠点に活動していた伊達輝宗に嫁ぐと、彼との間に政宗伊達小次郎という二人の男子をもうけました。

この兄弟こそが冒頭で述べた政宗毒殺騒動のキーになってくるので、こちらもよく覚えておいてください。

伊達家に嫁いだ義姫はかなり優秀な女性であったようで、当時としては珍しく政治に積極関与している点が特徴として挙げられます。

 

彼女の活躍を示す例が天正16年(1588年)に勃発した大崎合戦をめぐる動きで、実家である最上・大崎の勢力と伊達家が対立した際には、現場に参加することができない政宗の代わりに神輿で戦場へと乗り込み、最上・伊達両家に顔が利く彼女は両者をあっせんし和睦を実現させたとまで言われています。

超男尊女卑の戦国時代において女性が和睦を主導するというのは極めて異例で、このエピソードからも彼女の卓越した部分を垣間見ることができるでしょう。

 

本当に政宗の食事に毒を盛ったのか

伊達家でも発言力を有していたと思われる義姫でしたが、天正18年(1590年)に政宗の暗殺騒動を引き起こしたとされてきました。

これは小田原攻めに参加する直前の出来事で、出陣祝いに招かれた政宗は義姫の用意した料理に手を付けると突如として腹痛を訴えます。

 

結局急いで館へと戻った政宗は一命をとりとめ、母と共謀して自身を陥れようとした弟の小次郎と小原縫殿助を殺害。

立場を失った義姫は実家の最上家へと逃げ帰ったというものです。

 

主な動機としては「政宗を毛嫌いしており、溺愛していた小次郎に家督を継がせるため」という好み説と、「実は最上家から送られたスパイであり、伊達家弱体化をもくろんだ」という最上内応説の二通りがよく挙げられます。

この説話はかなり有力なものと考えられており、その証拠に伊達家が公式に発行した史料である「貞山公治家記録」の中にこれを裏付ける記載が存在します。

この史料を含めた「伊達治家記録」と呼ばれる史料群は、後世の編纂物ながら公式に発行された史料として高く評価されてきました。

 

しかし、結論から言えばこの事件をめぐる「治家記録」の記載には、明確な誤りが存在します。

それは、記録上で義姫は「騒動の後すぐに出奔した」と記されているにも関わらず、実際の出奔時期は文禄3年(1594年)であることが明らかになっていることによる「出奔時期のズレ」です。

 

そのため、少なくとも「暗殺に失敗したから出奔した」という記録の説明は破綻しており、この出来事そのものを見直す必要があるのではないかと思います。

あくまで私の個人的な推理ですが、政宗は母の意向などお構いなしに弟の小次郎を消し、自身に対抗しうる勢力の一掃を図ったのではないでしょうか。

しかし、後世で史料を編纂する際、すでに伊達家内で神格化されている政宗が「弟殺し」では名誉に傷がついてしまいます。

そこで、ちょうど近い時期に出奔していて最上の出身である義姫の毒殺事件を作り出すことで、現実とのつじつまを合わせようとした感じがします。

 

出奔の22年後に伊達家へと帰還した

暗殺騒動の是非はともかく、義姫が出奔をしたこと自体は間違いありません。

上記の事件が義姫の仕業ではないとすればどうして出奔したのか気になるところですが、個人的にはやはり「義姫が裏で手を引いているのではないか」という風評が家中で広まり、居場所を失ったと見ています。

 

ともかく、最上家に帰還した義姫はふたたび才女として活躍していたようで、慶長5年(1500年)の長谷堂の戦いに際しては、窮地に追い込まれた最上軍の現状を的確に分析し、伊達家へ救援を求める手紙を出しています。

これを受けて政宗はすみやかに救援を実行し、両軍は見事に上杉の軍勢を撃退しました。

 

しかし、江戸時代に入って義光が死ぬと最上家は内紛を起こし始め、元和8年(1622年)にはついに改易処分を言い渡されてしまいます。

こうして行き場を失った義姫は、伊達家に対して帰還を願い出ました。政宗は速やかに母を迎え入れる準備をすすめ、二人は実に22年ぶりの再会を果たすのでした。

そのわずか7か月後、この世での未練を果たし終えたかのように義姫は息を引き取っています。

 

【参考文献】
佐藤憲一『素顔の伊達政宗:「筆まめ」戦国大名の生き様』洋泉社、2012年。
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。

(筆者・とーじん)