山本義路 最後まで武士として戦い会津にて散る

〜軍事総督河井継之助を支えた家老山本義路 最後まで武士として戦い会津にて散る〜

慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争

その中で、新潟を舞台とした北越戦争で新政府軍は、長岡藩による抵抗で想定以上に被害を受けています。

今回は、新政府軍への快進撃に貢献し、長岡藩軍事総督河井継之助からの信頼も厚かった山本義路(やまもとよしみち)について追っていきます。

 

実父も養父も名家の血筋を持つ

義路は弘化3(1845)年に、安田家の嫡男として長岡で生まれました。

父は、長岡藩山本家9代目の義方の末弟鋼三郎で、母は越後長岡藩上級家臣の娘安田弓で、鋼三郎が安田氏320石の養子となり、安田渡と名乗りました。

 

義路が8歳の時に、山本家11代目の義和に子供がいなかった頃から、藩命を受けて山本家に養子入りしました。

長岡藩山本家は、武田信玄の参謀として活躍した山本勘助の弟の子孫とされており、山本老迂斎の時には牧野家6人の藩主に仕え、10代目の忠精から一文字賜り、精義とも名乗っていました。

また老迂斎は、邸内に「書堂」と呼ばれる学問所を設立し、人材育成にも寄与していました。

 

それはやがて、河井継之助酒井晦堂らを輩出する藩校崇徳館の設立における基礎を創ったこととなります。

前述にもある通り、父の安田渡ももとは山本家から安田家に養子になったため、義路は実父も養父も三河山本家の血筋を継いでいたわけです。

長岡藩山本家の祖の兄とされる山本勘助。武田信玄の戦での数々の勝利の裏には、勘助の優れた知略なくして語ることは難しいですね。

 

長岡藩の家老職に就き、河井と出会う

義路は神童と称され、文武ともに秀でていたことから、将来を嘱望されていたと言われています。

養子入り後、暫くして養父義和が隠居したため、家督を継ぎ家老職に就きました。(慶応3(1867)年に他界した後、家督を継ぎ「帯刀」と名乗るようになったとの説もある。慶応3年以降の表記は「帯刀(たてわき)」

 

やがて、長岡を離れ遊学していた河井継之助が、藩主牧野忠恭や忠訓に認められ台頭すると、河井は藩主信任の下改革に着手します。

特に藩士の石高を平均化する政策で、この政策に大半の藩士は継之助を恨んだ中、義路は石高の減石に快諾したとされ、終始河井とは友好的な関係を築いていきました。

山本(帯刀)義路とされる肖像画です。

 

北越戦争で大隊長として奮戦

慶応4(1868)年5月2日、河井継之助は新政府軍の岩村精一郎との間で執り行われた小千谷談判で、交渉に失敗し奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と戦う道へ進みます。

新政府軍に長岡城を奪われた長岡藩は、加茂まで撤退しそこで奥羽越列藩同盟に加入している各藩のリーダーらと会議を行いました。(加茂会議)

 

河井は会議の場で、長岡城再奪還を提案し同盟内でも承諾されました。

その際に、帯刀は大隊長として抜擢され、長岡城再奪還に向けての活路を開くため各地で奮戦します。

特に、慶応4(1868)年6月2日の今町の戦いでは、河井自ら陽動として新政府軍を引き付けている隙に、数十名の隊士を率いてゲリラ戦を展開し新政府軍を撤退させました。

帯刀率いる山本隊が実際に発砲した、銃弾痕とされるものが今でも残されています。

見附市今町にある石碑です。今町の戦いの際、山本隊が発砲した銃弾痕が残されており、激戦であったことが窺えます。

 

帯刀をはじめ長岡藩士の奮戦により一度は長岡城の奪還に成功するも、再び新政府軍の反撃を受け河井が負傷し、現場での指揮が執れず離脱したことから、長岡城はまたも新政府軍の手により落城しました。

藩主牧野忠訓ら一家は仙台藩へ逃れることとなり、実質長岡が新政府軍に占拠された形です。

 

会津藩と合流し奮戦するも・・・

長岡城再落城後、帯刀は40人弱の精鋭隊を率いて会津を目指して進軍し、会津藩兵と合流しました。

目的は、奥羽越列藩同盟の中で筆頭ともされる、会津藩主松平容保を守るためです。

 

帯刀は、自ら率いる精鋭隊と会津藩兵で、新政府軍側の宇都宮藩兵を挟撃する作戦を計画しますが、先に会津藩兵が敗走しました。

さらには、新政府軍側に黒羽藩が増派したこと、戦地となっている会津飯寺は濃霧が立ち込めており、友軍で同士討ちが起こり、山本隊は孤立することとなりました。

 

9月8日早朝、帯刀は宇都宮藩兵により捕らえられ、部下である渡辺豹吉とともに木に括りつけられた状態で1日を過ごしました。

 

翌10日、山本の武勇を散らすのを惜しんだ越後口軍監等が投降するよう促すも、帯刀は「藩主(牧野忠訓)は私に戦うよう命じてきたが、今だ降伏するようには命じておらぬ」というような陳述をしたとされ、説得は難しいと感じた新政府軍側は帯刀の意志を尊重し、斬首刑に処しました。

享年24歳という若さでした。

 

家名断絶からの復興まで

明治2(1869)年5月、箱館で榎本武明が降伏したことにより、1年4カ月に及んだ戊辰戦争が終戦しました。

その後、新政府軍は敗北した旧幕府軍側の処遇について検討します。

長岡藩は、戦時中に亡くなった河井継之助及び山本帯刀を戦犯として出され、両家は家名断絶となります。

 

帯刀には娘が二人いましたが、次女は熊本へ嫁ぎ早世したとされ、山本家を継いだ玉路は結婚しておらず跡継ぎがいませんでした。

そこで山本家の断絶を誰よりも恐れていたのが、帯刀と同じく会津飯寺の戦いの際に斬首された渡辺豹吉の弟渡辺廉吉でした。

廉吉は長岡内で適任者を探し、大正5(1916)年に高野貞吉の息子高野五十六を山本家の養子として計らっています。

 

24歳という若さで激動の時代を生きそして散った山本帯刀

現実世界で会うことのなかった養子五十六とともに、今は長岡市の長興寺に隣り合わせで眠っています。

長岡市稽古町にある長興寺。写真の中央左から二番目が山本帯刀の墓で、その右隣が山本五十六です。

(筆者・風来坊 Ka-z)