山本勘助の生涯に迫る!そもそも彼は本当に実在したのか

山本勘助(やまもとかんすけ)という人物は、世に名高い武田軍の躍進を支えた伝説の軍師として語り継がれてきました。

彼を取り上げた作品は江戸時代に人気を博し、そのために現代でも知名度は高い部類に入るでしょう。

 

ところが、勘助についてはその実在が長きにわたって疑われてきたのも事実で、実はかなり最近まで「完全に架空の人物」という扱いさえ受けていたのです。

ここでは、山本勘助の実在論争と、その生涯について解説していきます。

山本勘助

 

大河ドラマの影響で実在が証明された

まず、山本勘助という人物は明治時代に入ると「甲陽軍鑑という武田家の事績をまとめた史料のほかに、実在を証明できる証拠がない」として、長らく創作された架空の人物であるという見方が定説となっていました。

しかし、戦後になると彼の実在が証明されることになります。

その転機は1969年に放送されたNHKの大河ドラマ「天と地と」の存在でした。

このドラマは上杉謙信を主役とした作品でしたが、彼のライバルである武田家も大きく取り上げられることになります。

 

この作品に感銘を受けた北海道の一般男性が、先祖古来の書状の中に「山本菅助」と記された古文書を発見しました。

それを鑑定機関に提出したところ史料として認められたので、ここに山本勘助の実在が確認されたのです。

一字は異なるものの、この点に関しては音に対して当て字をするというのが戦国時代の文化であったため、音があっている点から同一人物と考えることができます。

 

前半生における活躍はほとんどが謎に包まれている

実在を証明できたところで、いよいよ勘助の生涯に迫っていきましょう。

ただし、戦後まで実在を証明できなかったということは、すなわち彼の存在を裏付ける史料が極めて少ないということを意味しています。

そのため、残念ながらその前半生はほとんどが謎に包まれているのです。

 

生年は明応9年(1500年)または明応2年(1493年)と考えられていますが、その他の出自や家族構成、青年期の逸話などについてはハッキリしたことが分かっていません。

しかし、武田家に仕官する前はどうやら浪人として諸国を放浪していたようで、武田家に召し抱えられるのは天文13年(1544年)と、もはや老齢に差し掛かっているといっても過言ではない年齢の頃でした。

 

召し抱えられた理由は、勘助の築城技術が高く評価されたためだと考えられています。

彼は後年にも築城で結果を残すため、この点に関しては事実である可能性も高いでしょう。

また、「築城名人」という噂が武田領内まで響いているということは、どこかしらの国で家臣として築城に携われる程度の立場にあったことを意味しています。

 

ただ、しばし伝説で語られるような「軍師としての軍事的センス」を買われて武田家に仕官したわけではなさそうなのです。

そして、この伝説との相違は、勘助の生涯を知るうえで非常に重要なポイントになってきます。

 

築城や使者としての活躍はあるも、軍師としての活躍は創作か

勘助は実在こそ確認できましたが、結論から言ってしまえば「軍師」としての活躍はほとんどが創作であるという見方が有力です。

例えば、彼の生涯における功績として語られることが多いものとして、第四次川中島の戦いにおける「啄木鳥戦法」の考案があります。

この戦法については「そもそも実際に存在したか」すら疑われており、第四次川中島の戦いを描いた史料が『甲陽軍鑑』以外に見つからない点からも、勘助が考案したかどうか以前に戦法として成立し得たかが議論されている始末です。

 

また、そもそもの大前提として、当時の日本には「軍師」という概念自体が存在しておらず、それゆえに『甲陽軍鑑』の記載にも「軍師」という言葉は登場しません。

そのため、勘助を「軍師」と結びつける考え方自体が江戸時代以降に見られる誤解で、ここには当時流行した『三国志』に代表される中国文化からの影響があるという見方もできます。

 

では、史実の勘助はどのような活躍をしていたのか。勘助は武田家に仕官した後、あくまで他国から従った将に対する一般的な待遇に置かれることとなります。

そこで彼は築城の技術を生かして活躍していたようで、本業で信頼を得たためか後年には川中島の領域で使者として他国に信玄の言葉を伝えています。

 

この当時、使者に任じられる人物は大名の信頼を受けている重臣であることも多かったため、勘助は軍師として活躍していたかは定かでないものの、確かに信玄からは評価されていたようです。

そのため、勘助は戦場で祈祷師のような役割を担っており、それが後年に軍師と誤解されるようになったという説も存在します。

 

しかし、彼は永禄4年(1561年)に川中島の激戦で命を落としたとされ、その原因は自身が考案した啄木鳥戦法を破られたためと考えるほかありません。

ただし、すでに触れている通りそもそも啄木鳥戦法の存在自体が謎に包まれているので、勘助の死にざまについても詳細なことは分かっていないというしかないでしょう。

 

【参考文献】
丸島和洋『戦国代表武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。

(筆者・とーじん)