一族郎党滅亡と埋蔵金伝説 内ケ島氏理

日本は昔から災害大国でした。

地震や台風などの被害が襲われ、多くの悲劇が生まれました。

それは戦国時代でも変わりはありません。

今日は、戦国史上でも例のない災害による一族滅亡を遂げてしまった内ケ島氏の話をお伝えいたします。

 

世界遺産の地 白川郷

合掌造りで世界的にも有名な岐阜県の白川郷

旧国名では飛騨に属するこの地域は、内ケ島氏と呼ばれる土豪が治めていました。

本拠地は、帰雲城と呼ばれる天然の要害でした。

 

白川は山間部のため、他国から侵入されることが少ない地域でした。

一方で、内ケ島氏に代々領土的野心はなく、他領を侵攻することもありませんでした。

いわば、専守防衛に努めていました。

白川郷の風景(白川郷観光協会HPより)

 

軍神や飛騨国司に対抗

しかし、戦国時代になると、白川郷は他国からの侵攻をたびたび受けるようになります。

この白川郷に侵攻してきたのは、軍神・上杉謙信の手勢でした。

 

内ケ島氏は、代々一向宗と友好関係にあったのですが、謙信は一向宗と敵対していたので、たびたび越中や加賀に侵攻し、本願寺門徒と刃を交わしました。

その際に、一向宗を支援する内ケ島氏理も標的になったのです。

しかし、氏理は要害・帰雲城に立て籠もり、上杉軍を退かせました。

上杉謙信の軍勢も撃退しました

 

次いで、帰雲城に攻め込んできたのは飛騨統一を目指す姉小路自綱でした。

自綱は、もともとは三木自綱と言いました。

 

自綱の父の良頼の代に飛騨国司の姉小路家の内紛に乗じて、姉小路家を乗っ取ります。

いわば下克上で主家を乗っ取った形になりますが、その姉小路の家督を継いだ自綱は、悲願の飛騨統一を目指して、白川郷に侵攻してきました。

 

しかし、ここでも氏理は帰雲城に籠城し、自綱の野望に立ちはだかります。

この自綱は上杉家と結びつき、その後もたびたび帰雲城に押し寄せますが、ついに落とすことはできませんでした。

自綱は、ついに氏理を攻めることを諦め、氏理の独立を認める代わりに協力関係を築くという同盟を結ぶことで落ち着き、念願の飛騨統一を成し遂げるのです。

 

独立を保てた理由

はっきり言って、白川郷は農地に乏しく、国力としては大したことはありませんでした。

しかし、そうした地の領主は、大きな勢力下に組み込まれて生き延びていくのが常道です。

それが、なぜ急峻な山岳地帯に位置する要害とはいえ、氏理が独立を保てたのでしょうか。

実は、内ケ島家は代々金山を経営し、豊富な資金を持っていたのです。

その資金をもって、一定の軍事力を有していました。

そのため、周囲もその存在を認めていたのです。

 

時代は変わって

戦国時代も織田信長を中心に統一に向けた動きが加速していきました。

北陸に大きな影響力を有した上杉家も謙信没後は、織田家の前に徐々に追いやられていきます。

そこで、氏理は織田信長に接近を図り、越中の佐々成政と誼を通じます。

 

しかし、1582(天正10)年の本能寺の変で信長が死ぬと、後継者争いが発生します。

羽柴秀吉柴田勝家の間で勃発したこの争いは、織田政権下の武将を真っ二つに割りました。

氏理は、これまでの交流から、反秀吉陣営の成政に協力し、越中富山城に援軍として赴きました。

 

一方、秀吉は、配下の金森長近に飛騨攻略を命じます。

長近は飛騨の諸城を次々と降し、つうに難攻不落の帰雲城に迫りました。

帰雲城を下した金森長近

 

この時、帰雲城は氏理が主力を率いて外征していたため、勝ち目はないと判断。

家臣たちは、長近に降伏を申し出て、帰雲城を開城してしまいます。

 

一方で、氏理もまた、富山城で成政が秀吉に降伏したことに合わせて、秀吉の前に屈服します。

秀吉は、氏理に対しては寛大に対処し、本領安堵を約束しました。

 

秀吉は、氏理たちがもつ鉱山の経営や開発の技術を高く買っていたのでしょう。

長近の配下として組み込まれたものの、処罰もなく終わったことで、皆安堵していました。

 

一夜にして消えた帰雲城

降伏して本領安堵を約束された氏理たちは、まずはよかったということで、酒宴を計画していました。

この酒宴は、帰雲城の周辺の諸城に詰めていた一族や郎党をことごとく帰雲城に集める大規模なものでした。

そして、1585(天正13)年11月29日、酒宴が開催されていた時に悲劇が起こります。

 

時刻は亥の刻(午後10時ころ)、西日本一帯を大きな揺れが襲いました。

天正大地震です。

震央不明ながら、この大地震の揺れの一つとして飛騨の養老断層が動いたことが確認されています。

この地震の被害は、北陸から中部、近畿に甚大な被害を出しました。

 

また、阿波でも地割れが生じています。

そして、飛騨一帯は、震度7クラスの大地震が襲ったと言われています。

この時、帰雲城も大きな揺れに襲われました。

そして、急峻な山岳地帯にあったことが災いします。

地震の影響で山体崩壊が発生し、山津波が帰雲城一帯を襲ったのです。

 

このため、氏理をはじめ嫡男や一族、重臣たちことごとくは山津波に飲み込まれてしまいました。

生き残ったのはごく数名と言われています。

一瞬にして、飛騨で存在感を示した内ケ島氏が滅亡してしまったのです。

また、この時、帰雲城にあった金もことごとく飲み込まれました。その額、5000億円とも言われています。

帰雲城址の碑(wikipediaより)

 

世界遺産となり、多くの観光客が訪れる白川郷。

この地を襲った悲劇は、埋蔵金伝説とともに天災の恐ろしさを私たちに伝えてくれています。

(筆者・黒武者 因幡)