宇喜多直家ってどんな人?残忍な裏切りでのし上がった梟雄!

〜もはや芸術の域 梟雄・宇喜多直家の謀略の数々〜

梟雄(きょうゆう)という言葉があります。

意味は、『残忍で強く荒々しいこと』です。

いわゆるダークヒーローと言えば、わかりやすいでしょうか。

雑誌『歴史街道』がかつて行った「梟雄と聞いて思い浮かべる歴史上の人物は?」というアンケート調査によると、第1位は斎藤道三、第2位に織田信長、第3位に松永久秀となかなかの人物が上がっています。

いずれも、大物・曲者ですね。

 

こうした人物の影に隠れてしまっていますが、このアンケートで第4位に入っている宇喜多 直家(うきた なおいえ)を筆者は戦国時代の梟雄筆頭にあげたいと思っています。

この宇喜多直家を知れば知るほど、彼の『芸術的な』謀略の数々に感嘆させられます。

ここでは、宇喜多直家の生涯とその謀略のいくつかをご紹介しましょう。

戦国時代きっての梟雄・宇喜多直家像

流浪の子

宇喜多直家は、享禄2(1529)年、宇喜多興家の子として、備前国邑久郡に生まれました。

しかし、直家は3歳のころに早くも戦乱の世に翻弄されました。

 

備前を支配していた浦上氏の家臣だった祖父の宇喜多能家が、仕えていた浦上家中の勢力争いの末、同じ家中の島村盛実の奇襲を受け、自害に追い込まれてしまいました。

この時、直家は、父・興家とともに居城を捨て、放浪の旅に出なければなりませんでした。

宇喜多親子は苦労を重ねました。

 

そして、父・興家はの宇喜多家再興が叶わぬまま病死します。

宇喜多家再興の夢は、直家に託されたのです。

成人した直家は、なんと祖父が仕えていた浦上家に再び仕えることになったのです。

実直に仕え、直家は主君の浦上宗景の信頼を得ていきます。

しかし、直家の目には、冷たい光が宿っていたのです。

 

祖父の恨みを晴らす

当時、浦上家では、直家の祖父・興家を殺した島村盛実中山信正が権勢を誇っていました。

浦上宗景はこの2人を除き、自分が実権をもちたいという想いを持っていました。

この宗景に直家が囁きます。

「私が、あの二人を何とかしましょう」

ちなみに、直家の妻は中山信正の娘でした。

 

直家は、まず信正の居城であった亀山城の近くに小さな茶亭を作り、狩りの度に休息に立ち寄りました。

その際には、必ず酒宴を催し、義父の信正を招いて、歓待しました。

こうしたことを繰り返すうちに、信正は直家を亀山城に招いて、返礼を行うようになります。

 

何度めかの城内での酒宴も終わり、信正は直家に「今日は城に泊っていけ」と話し、直家もその言葉に甘えます。

その信正の好意こそ直家の謀略を引き出す言葉だったのです。

その夜半に直家は信正を暗殺、城外に伏せていた兵を城に入れ、亀山城を乗っ取ります。

 

その後、宗景が、島村盛実に「中山信正謀反。直家とともに信正を討て」と命を下します。

盛実が亀山城に着くと、既に直家の軍勢が占領しています。

「先に鎮圧しましたが、ぜひともに城内で酒宴でも」と盛実を招き入れ、これも殺害します。

全ては主君・宗景と示し合わせた謀略だったのです。

 

こうして、直家は一晩にして、浦上家の最高権力者に成りあがったのです。

のちに、直家は宗景も追放し、備前のほとんどを掌中にします。

亀山城址にある直家飛躍の地の碑 まあ、確かに飛躍ではあるのですが……

日本最初の狙撃による暗殺

備前を制した直家の前に立ちふさがったのは毛利家でした。

その毛利方として最初にぶつかったのは、備中を支配する三村家親でした。

 

そこで、直家は日本初となる鉄砲による暗殺を実行します。

家臣の遠藤又次郎は鉄砲の名手として知られていました。

この又次郎に「生きて帰れなかった場合は、家族の面倒は見る」と約束し、狙撃に向かわせました。

 

当時の鉄砲の有効射程距離は、100メートルほどと言われています。

単身、敵陣深く潜入するわけですから、又次郎が生きて帰れる確率はほとんどありません。

しかし、又次郎は見事、家親暗殺に成功。さらに生還するという奇跡を起こしました。

 

これに感激した直家は、又次郎に浮田姓を名乗ることを許し、1000石の褒章を与えています。

そして、これが記録に残る鉄砲による暗殺成功の初事例になるのです。

この暗殺で三村家は弱体し、直家は備中も支配下におくことに成功します。

画像は毛利輝元 宇喜多直家は、毛利家に敵対と臣従を繰り返します。

他にも家臣を使った城乗っ取り画策

また遠大な謀略を巡らした竜口城攻めではこのような話があります。

直家は、ある日、家臣の岡郷介を「罪を犯した、郷介を殺せ」とわめきたてました。

しかし、郷介は既に出奔し、備中に逃げていました。

郷介は、この備中で身寄りのない老女を「私の生き別れの母上ではないですか」と感動の再開を果たし、迎え入れました。

 

ところが、この老婆は、郷介の本当の母ではありませんでした。

郷介はあくまで謀略のための駒として、この老婆を利用しようと考えたのです。

一方、貧しい老婆は、急に名のある武士の母として、衣食住に不自由なく暮らせる幸運が舞い込んだと思ったに違いありません。

そして、郷介はこの『母』とともに竜口城の近くの船山城主に仕えることになりました。

 

しかし、郷介は船山城と敵対していた竜口城の税所元常の許に走ります。

船山城側では、残された『母』を処刑しました。

郷介は「船山城は母の仇」として、税所元常に懸命に仕え、信頼を置かれました。

信頼を得た郷介は、ある日、二人きりになった際に元常を暗殺。

 

城主を失った竜口城は直家の軍勢の前に降伏。

兵に犠牲を出すことなく、直家は城を手にしたのです。

これも、遠大なシナリオに沿った謀略と言えるでしょう。

もはや「すごい」としか表現できません。

 

家臣には優しかった直家

敵や邪魔者には容赦なく謀略を巡らす直家ですが、家臣団には優しい一面を見せています。

かつて勢力がまだ小さかった時、食料に困窮したことがありましたが、直家は家臣とともに絶食したりと、苦労を分かち合いました。

 

また、これは直家が、毛利から織田に寝返る際の話ですが、家老の戸川秀安の次男が毛利に人質になっていました。

直家が織田についたら、この次男は処刑必至でした。

この時、直家はなんと領内を通過した毛利家重臣の安国寺恵瓊を捕らえ、人質交換で救出したのです。(直家らしい)

 

このような家臣に見せる優しい一面のおかげでしょうか。直家はこれだけの裏切りや謀略を駆使していても、自分の周辺から謀反などの話は出ていないのです。

これも幼いころの流浪を経験し、また勢力が弱いころから仕えてくれた家臣たちを大事にしていたからでしょう。

直家は家臣たちに信頼をおき、勢力を増したらその忠節に報いています。

 

先のアンケートで名が挙がった梟雄の最期は、みな裏切りや身内との争いで命を落としています。

一方で、これだけの謀略の数々を行った直家の死因は病死です。

なんと畳の上で死ねたのです。ここが他の梟雄たちと違うところでしょう。

乱世の中で、梟雄としての存在感をもつ宇喜多直家。知れば知るほど、戦国時代を体現する人物であったと言えるのではないでしょうか。

(筆者・黒武者 因幡)

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