〜仮名手本忠臣蔵にこめられた想い〜
忠臣蔵といえば、日本人にとって有名な物語の1つです
既に筋書きを知っていらっしゃる方には、耳にタコができるようなものかも知れませんが、簡単にあらすじをご紹介しましょう。
時は、室町時代はじめ、南北朝の動乱のころ。
時の征夷大将軍・足利尊氏は、弟の直義を使者として京から鎌倉に下向させました。
この直義の接待役を命じられたのが、播磨の大名だった塩谷判官でした。
そして、判官の指南役を高 師直が務めます。
ところが、師直は判官の妻に横恋慕し、言い寄りますが拒絶されました。
このことを根に持った師直は、判官に恥をかかせます。
怒った判官は、師直に斬りかかりますが、失敗。
判官は即日切腹。塩谷家も取り潰されてしまいました。
その仇をうつべく、塩谷家の家老、大星由良之介が放蕩しながら、同志たちと準備を進め、ついに仇の高師直を討つという物語です。
えっ……、全然知らない?時代も登場人物も、何もかもが違う?
そうお感じになった方も多いでしょう。
その通りです。
さっき説明した物語は、江戸城松の廊下での刃傷事件から吉良邸討ち入り、さらには赤穂浪士たちの切腹で終わる、いわゆる元禄赤穂事件を題材にした「仮名手本忠臣蔵」の物語の一節です。
この「仮名手本忠臣蔵」が爆発的に人気演目になった影響で、元禄赤穂事件=忠臣蔵の図式が完成したのです。
でも、みなさん、「仮名手本忠臣蔵」のタイトルに込められた意味を知っていますか。
今回は、仮名手本忠臣蔵に込められた想いをご紹介しましょう。
なぜ時代が違うの?
元禄時代の舞台設定にしなかった理由は、簡単です。
幕府の処罰を恐れたからです。
元禄赤穂事件に関していえば、浅野内匠守の切腹について、十分な審議が行われずに下された処分でした。
そして、当時の武士の規範の根底は、「喧嘩両成敗」でした。
これは、鎌倉時代に制定された御成敗式目で成文化されてますが、それ以前からの武士の規範でした。
その規範に照らしても、赤穂浅野家は主君は切腹、お家は断絶。
一方で吉良家への処分は一切下されなかったのです。
もちろん、こんな理由で処分しましたという内容は公開されません。
多くの人が、この幕府の裁定は、不公平だと感じていたのです。

と、いっても、面と向かって批判すれば、「ご政道批判」として、最悪死罪の可能性がありました。
そのため、みな、黙っているしかなかったのです。
そこで、芝居では。「全く別の時代の架空の物語」としてシレッと上演することで、処罰を逃れることを狙ったのです。
忠臣蔵の意味は?
なぜ、元禄赤穂事件の話を忠臣蔵というのでしょうか。
これも、いくつかの話があります。
まずは、主人公・大石内蔵助の「蔵」からとったものです。
忠臣・内蔵助という意味で、大石内蔵助を讃えているというものです。
これが、庶民のとってもっともわかりやすく、受け入れられやすい理由でしょう。
しかし、忠臣蔵というタイトルの意図をさらに突っ込んでいくと、太平の世における武士たちに向けたメッセージも込められているのです。
事件の発生した元禄時代には、既に戦は過去のものとなっていました。
武士を戦う人と考えるならば、この時代、武士はいなかったといっていいでしょう。
戦乱の世に必要とされた槍や弓、鉄砲などは「蔵」にしまわれたままになっていました。
それは、いざというとき、主君のために戦うという忠臣もまた、表立っては必要されなかったのです。
元禄赤穂事件・忠臣蔵は、蔵の中で誇りをかぶったままになっている武士の武士たる所以を思い出させてくれた物語として、庶民だけでなく武士たちの心にも響く事件だったのです。

仮名手本の意味
仮名手本とは、当時子供たちが手習いで文字を覚えるための本でした。
いわゆる「いろは」の練習帳です。今でいえば、「あいうえお」練習帳です。
この「いろは」で始まる仮名手本ですが、この仮名の数は、47文字です。
そして、吉良邸に討ち入った赤穂浪士も47名。
この仮名を赤穂浪士にかけて、タイトルにしています。
この物語は、主君の仇討ちに命を懸けた赤穂浪士一人一人の物語であるという意味があるのです。
仮名手本に隠されたもう1つの意味
さて、仮名手本。
いわゆるいろは歌ですが、実はここに作者が最も伝えたいメッセージが隠されています。
それは、いるは歌にして考えるとわかりやすいので、ここで展開いたしましょう。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむういのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑゐもせず
上に記したのは、いろは歌をある法則で行をかえたものです。
tがなくてす日本文学では和歌が「5・7・5・7・7」、俳句が「5・7・5」のように規定された文字数で表現されます。
このように7文字や5文字できってリズムをつくるのが日本語の伝統です。
この伝統にしたがっていろは歌を「7・7・7・7・7・5」文字で切って、末尾の文字に注目すると、作者が込めたメッセージが浮かび上がってきます。わかりましたか?
とかなくてしす→科なくて死す と読めるのです。
赤穂浪士たちは、罪無くして死んだという意味になります。
幕府は、武士の鑑たる赤穂浪士たちに死をもって報いたということで、幕府の赤穂浪士たちへの処分への批判が込められています。
ここにこそ、仮名手本忠臣蔵というタイトルに込められた意味の本質があるのです。

現在まで伝えられる忠臣蔵
日本人の精神を語るうえで欠かせないのは「武士道」です。
しかし、戦国時代に「武士道」はありませんでした。
なぜならば、戦国時代は「下克上」です。
主君を押しのけて、あるいは謀反を起こしてとってかわることが普通でした。
しかし、太平の世になって、主君を支える忠臣こそが「武士の鑑」とされるようになりました。
その「武士道」精神が、今の私たちの価値感や道徳に大きな影響を与えています。
武士道精神を確立することになった物語・忠臣蔵。多くの日本人の感情を揺さぶり、日本人の精神性を伝え続ける物語だからこそ、現代でも色褪せずに語り伝えられ続けているのでしょう。

(筆者・黒武者 因幡)