豊臣秀長とはどんな人物?温厚にして優秀で実の兄・秀吉の片腕だった!

〜温厚にして優秀な豊臣秀長は実の兄秀吉の片腕だった!〜

小一郎秀長と言えば大和大納言にして秀吉の実の弟として知られる。

しかし、温厚で調整役を務めたというイメージがあまりにも強く、武将としてはどうだったのかと聞かれると返答に困ってしまうのではないだろうか。

 

実は秀長には、秀吉の後を継いで日本を統治できるだけの器量があったことを史料から垣間見ることができる。

地味な実力者秀長とは一体どのような人物だったのであろうか。

肖像・秀長

 

秀吉が全幅の信頼を寄せた弟秀長

秀長は秀吉の異父兄弟であるというのが通説であったが、最近になって同父兄弟であったという説も唱えられるようになってきている。

あまりぱっとしない男子が多い秀吉の親類の中にあって、秀長は飛び抜けて優秀であったらしい。

戦においては常に秀吉とともにあり、その助言は極めて的確であったという。

 

そのため、秀吉は秀長の批判だけは、少々耳の痛いものであっても受け入れたようである。

また、人柄も誠実・温厚で調整役としても諸大名からの信頼も厚かったのである。

秀吉は秀長には全幅の信頼を寄せていたことで知られる。

 

知将にして人望大

秀長は秀吉の補佐役としてだけではなく、「武将」としても優れた能力を発揮している。

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が不在の間に大将として猛将柴田勝家の激しい攻撃を食い止め、勝利に大きく貢献している。

 

また、1585年の四国征伐においては、珍しく病気で出陣できなかった秀吉に代わり総大将を務め、苦戦を強いられながらも、10万の軍勢を率いて長宗我部元親を降伏させるという功を挙げる。

この功により、大和・紀伊・和泉100数十万石を領する大大名となる。

 

大和国は奈良の宗教勢力や国侍の影響が強く、統治が極めて難しい土地であった。

知恵者としても評価の高かった秀長はまず、国侍の力を削ぐために馴染みの深い前領主、筒井定次に従って伊賀へ移り住むことを推奨した。

大和に留まることも許されたが、その場合武士の身分を捨て農民とならねばならなかった。

この戦略により国侍の牙を抜くことに成功する。

 

また、興福寺などの大寺に対しては寺領の過大な石高申告を正すため、厳密な検地を行い、石高を削減した。

さらには僧兵たちの武器は全て没収し、武力に訴えることができないように図ったのである。

 

奈良の大商人の力を削ぐことも忘れなかった。

何と、奈良での商いを禁止する政策を取ったというから驚く。

酒造りと市を立てることは許されたことから、大商人を狙い撃ちした政策であろう。

 

次いで、自らの居城である大和郡山城の城下町では、商いをむしろ奨励したので大いに栄えたという。

まさに「名君」と言うにふさわしい統治ぶりであった。

人格も温厚そのもので、『武功夜話』では「朴訥仁義に厚き御仁に候」と評されている。

名将藤堂高虎は、その有能さゆえ使いこなせる主君が中々おらず8回も主君を変えたことで有名であるが、秀長には心服していたのか忠義を尽くしている。

 

「金融業」に着目した斬新な政策

秀長は奈良において「ならかし」という政策を行ったとされる。

「ならかし」とは秀長が奈良の金融商人を通じて米を高利で貸し付け、その金利を「金」で受け取るというものである。

 

これは金融商人に課税するということと同様の行為であり、当時としては画期的なものであった。

この利益は豊臣政権の財政を大いに潤したが、秀長の死後「唐入り」に使われることになってしまったことは皮肉と言うしかない。

 

大納言秀長の死因

九州征伐における功により、秀長は1587年に従二位権大納言に叙任されるが、このころから体調を崩しがちになったと伝えられる。

秀長の体調は完全には回復しないまま、1591年大和郡山城でその生涯を閉じた。

享年52であった。

 

秀長の死因は「病死」とされるが詳しいことはわかっていない。

結核と言う説もあるが、当時の医師曲直瀬道(玄朔)が記した『医学天正記』の記述を分析すると、胃腸系のヒ素中毒の可能性があることが指摘されている。

ヒ素による毒殺だとすると、犯人として考えられるのは誰かということになるのだが、徳川家康の関与を疑う人もいるという。

確かに、秀長死去の2日後に千利休家康が2人だけで茶会を開いていて、その約1ヶ月後には利休は秀吉に切腹させられている。

この利休切腹事件には謎が多いが、利休が秀長暗殺の実行犯であるとするなら、発覚すれば切腹は当然であろう。

しかしながら、今のところ真実は闇の中である。

 

あとがき

豊臣政権にとって秀長の死は大きな打撃であった。

その後、秀次事件によって貴重な後継者であった豊臣秀次を失うと、その政権は不安定さがますます顕著になる。

このことから、秀長の死によって豊臣政権は事実上破綻したのではないかというのが私の見立てである。

秀長が健在なら秀次事件もなく、唐入りもなかった可能性が高く、家康が付け入る隙も無かったのではないだろうか。

ひょっとすると、秀吉の影の「軍師」は秀長であったのかもしれない。

(筆者・pinon)