鳥居元忠の生涯に迫る!最期まで家康を支えた屈指の功臣

「天下分け目の戦い」といえば関ケ原の戦いが思い浮かびますが、その関ケ原における前哨戦として位置づけられた「もう一つの関ケ原の戦い」をご存知でしょうか。

この戦いは伏見城の戦いと呼ばれ、関ケ原に出陣していくためにほとんどの兵が不在の「空城」に等しい伏見城を預かった鳥居元忠(とりいもとただ)が後世に名を残すこととなった戦です。

 

この記事では、伏見城の戦いに至るまでの元忠の生涯を解説していきます。

鳥居元忠

 

古くから家康に仕え、彼と共に武将として成長していた

元忠は、天文8年(1539年)に徳川家(松平家)に仕え続け、主に経済的な面から家を支え続けてきた鳥居家に生まれました。

父は鳥居忠吉という人物で、彼は三男にあたるものの長男の戦死や次男の出家によって家督を継承することになります。

 

初陣は家康と同じタイミングである永禄元年(1558年)に経験し、織田信長によって今川義元が討たれた桶狭間の戦いにも参加しました。

桶狭間以降は家康が今川の支配を逃れたため、彼の地位が向上するにともなって元忠もまた境遇が一変することになります。

 

永禄6年(1566年)ごろには徳川家の軍制改革が実施され、元忠は「旗本先手役」に抜擢されました。

この役職は家康の信任を得た将しか任じられることのないものであり、彼との関係性が表れています。

 

大大名として成長していく家康を支え続けた

信長の影響下で力を伸ばし続けていった家康は、やがて有力な大名の一家に成長していきました。

信長とはしばしば共同戦線を張り、例えば織田軍と浅井・朝倉軍の間に勃発した姉川の戦いでは信長方の将として参陣しています。

 

ここには家康に絶えず付き従っていた元忠の姿もあり、家康のために働くことで結果的に信長にも貢献することになりました。

しかし、天正3年(1575年)に敵方の鉄砲が左足に命中してしまい、足が不自由になってしまいました。

 

それでも家康の信頼を獲得していた元忠は、本能寺で信長が暗殺されたことにより家康がからくも一命をとりとめて以降に勃発した天正壬午の乱においても活躍し、一万ともされる北条氏の大軍をその半分以下の手勢で撃退したと伝わっています。

この働きは家康に評価され、戦いによって徳川が得た甲斐国の一部をそのまま元忠に与えることとなりました。

さらに、家康の身分・勢力が向上していったことによって、その忠臣として名を轟かせていた元忠にも官職の授与が検討されるようになります。

 

しかしながら、元忠はこの官位を断固として拒みました。

その理由は、「官位を得て二人の主人に仕えることはできない」というもので、あくまで自分の仕えるべき対象は家康であるという姿勢を崩しませんでした。

 

さらに、天下を手にした秀吉からも惚れこまれるほどの将であったと伝えられています。

先の官位をめぐる逸話でも「官位を得て関白殿に姿を見せられるような人物ではない」という理由からその授与を断ったともいわれており、こうした謙虚さや実直さにほれ込んだ秀吉は、元忠の息子を自分の養子にすることで間接的に元忠を自身の配下にしようとしました。

それでも、元忠は「私が他家に仕える道理はない」としてこれを拒否。

秀吉もこれには降参といったところで、家康の関東入国後は下総国(現在の千葉県)に4万石の領地を与えられました。

 

伏見城で壮絶な最期を遂げる

家康をして絶対的な信頼を獲得していた元忠は、秀吉が亡くなってにわかに戦乱ムードが高まりつつある中、当然ながら家康の行動に付き従っていました。

そして、慶長5年(1600年)には家康と石田三成の大戦が避けがたい状況に発展し、手始めに家康は三成方に付く上杉氏征伐のため会津へと出陣します。

 

しかし、家康が大軍を動かせば彼の居城である伏見城がもぬけの殻になり、ここを三成が攻めてくるのはほぼ確実でした。

それでも、ここで動かした軍勢がそのまま天下分け目の戦に動員されることは明らかでしたし、彼の立場としては一人でも多くの戦力を遠征軍に加えておきたかったのです。

 

それでも、伏見城を完全に留守にすることはせず、わずか3千程度の兵を残しておきました。

ここで留守役に命じられたのが元忠で、仮に戦が勃発すれば死を免れないという立場に置かれることになります。

 

元忠の反応は「一人でも多くの兵を連れ出すというのは道理であり、留守は我々に任せてほしい」というものでした。

こうして本隊が会津へ向かうと、案の定三成が率いる10万ともいわれる大軍に包囲されることになります。

 

降伏勧告をする三成に対し「主命を違えることは出来ない」として徹底抗戦の構えを見せると、絶対的な兵力差がありながら約13日も粘り強く抗戦したと伝わっています。

最終的には討ち死にしてしまうことになるのですが、その後家康が関ケ原に勝利したことで、彼の立ち振る舞いは「三河武士の鑑」として後世に語り継がれていったのです。

 

【出典】
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。

(筆者・とーじん)