日本を大きく変えることになった明治維新。
その中心勢力は長州藩と薩摩藩でした。
しかし、この維新を成し遂げた長州藩においても、維新の直前まで守旧派が権力を握り、倒幕を目指す若手藩士たちを弾圧しようとしました。
この時、動いたのが、長州の革命児・高杉晋作でした。
ここでは、明治維新の始まった日といえる功山寺決起についてお伝えします。

吉田松陰の松下村塾で学ぶ
高杉晋作は、1839(天保10)年に萩城下で、高杉小忠太の長男として生まれます。
高杉家は長州では比較的上位層の家柄で、何もなければそれなりの役職を拝命して勤めを全うすることができました。

しかし、吉田松陰のとの出会いが晋作の人生を大きく変えていきます。
松陰の教えは、「この激動の世の中を変えることには行動が必要だ。それを人が狂人というならば狂ってしまおう」という行動重視のものでした。
穏やかな学問しか知らない晋作にとって、この松陰の存在は大きな刺激になったことでしょう。
この松陰の思想は、晋作の行動の指針になっていきます。
1857(安政4)年に松下村塾に入った晋作は、松下村塾の四天王と呼ばれるまでになりました。

師との別れ
しかし、松陰と過ごす時間はごくわずかな期間に過ぎませんでした。
松陰の思想を危険視した大老・井伊直弼によって、1859(安政5)年、松陰は捕らえら、処刑されます。
この時、松陰が獄の中での不自由しないように世話をしたのが、当時江戸にいた晋作たちでした。
無念にも帰藩を命じられますが、その道中で晋作は松陰処刑の報を聞きました。
この時から、晋作の中に幕府への恨みが募っていきます。
しかし、まだその想いは胸の奥に秘めていなければならないものでした。
上海で世界を知る
1862(文久2)年、晋作は藩命で幕府側の施設随行員として上海に渡航しました。
そこで見たものは、清国の民が、英仏の人間から奴隷のような扱いを受ける実態でした。
いわゆる植民地となっていった場合、自国の民が塗炭の苦しみを味わうことになるのです。
晋作は、この光景は日本にとっても他人事ではないと感じます。
そして、以後、攘夷運動に身を投じていきます。
しかし、外国公使殺害計画や品川御殿山の英国公使館焼き討ち実行など過激な行動をとる晋作を危ない存在と感じた藩によって謹慎を命じられてしまい、一線を引く形になりました。
長州の、日本の危機を救う
この後、長州は苦難の道を歩みます。
8・18政変で京都での政争に敗れた長州は、捲土重来を期した禁門の変で再び敗れます。
さらに、その直後、かつて攘夷実行で、長州が外国船に砲撃を加えた報復として英米仏蘭の4か国が下関を砲撃し、長州は敗れます。
この時、外国との交渉にあたる役として抜擢されたのが、晋作でした。
彦島の租借を条件にあげてきた列強に対し、晋作はそこに日本の植民地化の危機を感じます。
そこで、晋作は「畏れ多くも神国の土地を支配下におくというのであれば、この国のこれまでの歴史をお伝えいたす」と言って、交渉の席で延々と古事記を話し始めました。
このままでは何日かかるかわからないと感じた諸外国は租借の条件を撤回。
晋作は、日本の植民地化の芽を摘んだのです。
これで、晋作の藩内での存在感と力は増していきました。
一方で、晋作は武士を見限り、藩をそして日本を真剣に守ろうとするのは民であると考え、武士以外の身分から私兵を募り、教練を行っていきます。
これが有名な奇兵隊です。
この晋作の存在は、藩の上層部から危険視されていくのです。
功山寺決起
一方で、長州藩には幕府からの征伐の軍が迫っていました。
第一次長州征伐です。
藩の滅亡がかかる中、藩首脳部の出した結論は、恭順でした。
そして、藩が幕府からつぶされないために主戦派を粛正します。
この時、井上馨が暗殺され瀕死の重傷を負う事件がおきました。
晋作にも刺客が向けられる恐れが高まり、晋作は脱藩し、福岡に逃げます。
しかし、藩首脳部は主戦派の三人の家老を処刑するなど弾圧を強める中、このままでは長州は死んでしまうと感じた晋作は、再び長州に戻り、12月14日に功山寺で挙兵する計画を立てました。
12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日であり、師の松陰が東北遊学の為脱藩した日でもありました。
「生きて大望あればいつまでも生くべし。死して大業の見込みあれば、いつでも死すべし」
今が、死すべきときかも知れぬと晋作は感じ取っていたのでしょう。
功山寺で藩上層部への反逆の狼煙を上げたのです。
挙兵時、晋作のもとには、奇兵隊士、伊藤俊助(博文)と力士隊など84人しかいませんでした。
「狂人」と言われれば、「狂人」です。
勝機などは全くなく、命を懸けた無謀な決断でした。
しかし。この命がけの行動が、長州を大きく変えていきます。
道中、晋作らに同情的だった長府藩や下関の豪商・白石正一郎らの支援も得た晋作らそして、藩内の守旧派との闘いに勝利し、藩の実験を握ることに成功するのです。
晋作の捨て身の決断が、時代を動かした瞬間でした。

志半ばで病死
こうして晋作ら倒幕派が実権を握った長州藩に対し、幕府側は2度目の征伐隊を起こします。
しかし、この時、すでに長州は薩摩と秘密裏に同盟を結んでおり、軍備と兵糧を十分に蓄えていました。
晋作は、この戦で軍艦を率いて、緒戦占領された周防大島の奪還に成功。
さらには、下関の対岸の小倉城を落とすなど勝利の立役者になっていきました。
この第二次長州征伐の失敗は、幕府の権威の失墜を意味し、後の大政奉還、さらには戊辰戦争に結び付いていきます。
しかし、この維新の立役者との言える晋作が、その変革を見届けることはできませんでした。
既に末期の労咳に蝕まれていた晋作は、1867(慶応3)年、4月、下関で亡くなりました。
辞世の句と伝わるのは(諸説あります)「おもしろき こともなきよを おもしろく」
この後を野村望東尼が「住みなすものは 心なりけり」とつけたといわれています。

日本を守り、維新の立役者となった高杉晋作。
彼が無謀ともいえる功山寺での寡兵での行動がなかったら、今の日本はまた違った姿になっていたのかも知れません。
(筆者・黒武者 因幡)