医師の前にあるのは患者のみ 高松凌雲

江戸時代、庶民は滅多なことでは医者にかかることはできませんでした。

薬代などが高く、その費用が払えなかったからです。

そのため、医学知識があれば助かった命が失われることも多くありました。

また、家族の薬代のために、娘が身を売ることもありました。

 

明治になって、そうした環境を憂えて、市井に生き、庶民のために働こうと考えた医師がいました。

その医師の名は、高松凌雲(たかまつりょううん)と言います。

かつては、将軍・徳川慶喜の御典医を務めた名医でした。

今回は、医師・高松凌雲をご紹介します。

 

江戸に出て医師になる

凌雲は、1836年に筑後国(現・福岡県)の庄屋の家に生まれました。

兄は、江戸の御家人である古屋家に養子に入り、古屋作左衛門と名乗り、幕臣として仕えていました。

その兄を頼って、凌雲も江戸に出ました。

 

その江戸で、凌雲は西洋医学を学び、ついには大坂で緒方洪庵の適塾に入塾。

医学だけでなく、語学も身に着けて帰ります。

さらに、江戸で英語を教える英学所で英語もマスターし、その才は広く知られるようになりました。

 

やがて凌雲は、一橋家から医師として仕えるように誘われます。

その一橋家当主こそ、最後の徳川将軍である徳川慶喜でした。

慶喜は間もなく将軍になりました。

凌雲は、一橋家に入ってすぐに、医師として江戸城で仕えることになったのです。

 

転機はヨーロッパ

1867(慶応3)年、凌雲は万国博覧会に参加する役人ための医師としてパリに向かいました。

そこで、凌雲は貧しい人々のために無償で働く医師の存在を知り、感銘を受けました。

そうした貧民のために、無償で医療を施す医師は当時の日本にはほとんどいませんでした。

 

また、こうした貧しい人々のために医療施設が、国の負担ではなく、篤志家や富裕層の寄付金で賄われているという事実にも凌雲は驚きます。

また、当時、ヨーロッパでは赤十字委員会が発足し、敵味方なく全ての負傷者に医療を施すべきという考えが社会的に広がっていました。

赤十字社の創設者 アンリ・デュナン

 ――患者には敵も味方も、金持ちも貧しい人も関係ない。医師の前では全て同じ患者なのだ――

この精神に感銘を受けた凌雲は、以後、医師としてもの理想のために邁進することになります。

 

幕府軍の医師として

日本では、時代は大きく変わっていました。

1868年、幕府軍と新政府軍との間で戦が始まります。

凌雲は、ヨーロッパから呼び戻されます。

幕府側の医師として働いてほしいということでしたが、凌雲が帰国したころには、幕府は既に瓦解し、主君の慶喜は水戸で謹慎している状態でした。

 

どうすべきか悩んでいた凌雲に声をかけたのは、榎本武揚でした。

兄の古屋作左衛門も、幕府軍の衝峰隊の隊長として、武揚とともに新政府軍に抗する意思を示していました。

凌雲も幕府側の人間ですから、武揚の誘いに応じますが、1つ条件を出しました。

『病院や治療方針には一切に口出ししないこと』

この条件を武揚は飲んだため、凌雲は武揚らとともに蝦夷に向けて出港します。

――傷病兵に敵も味方も関係ない。私の前では同じ患者である――

この理想の実現する時が、すぐそこに迫っていました。

 

日本初の赤十字活動

凌雲はこの精神に則り、箱館病院では幕府軍だけでなく、新政府軍の兵士でも病院に担ぎ込まれた者は分け隔てなく治療しました。

最初、箱館病院に榎本軍との戦闘によって負傷した新政府軍の兵士6人が運ばれてきました。

「殺せ」という怒号も上がる中、凌雲は6人を病院に収容、治療に当たります。

当初はこの方針に反発する者もいましたが、凌雲は「医師の前では、敵も味方も、富者も貧者もない。あるのは患者だけだ」と赤十字精神を熱心に説き、ついには周囲からその方針を認められました。

のちの、この兵士たちは榎本軍の手で青森に運ばれています。

 

しかし、そうした方針で治療にあたる箱館病院を悲劇が襲いました。

箱館にある高龍寺という寺の分院が、箱館病院の分院として使用されていました。

この高龍寺に新政府軍が押し寄せてきました。

治療にあたっていた医師は、中にいるのは傷病兵であること、箱館の病院は敵味方なく治療にあたっていることを話したものの聞き入れられず、中で治療されていた兵士が会津藩士であるとわかると、新政府軍は全員を殺害するという暴挙に出ました。

高龍寺分院の虐殺といわれる事件です。

高龍寺分院の悲劇を伝える碑

 

一方、本院の箱館病院にも新政府軍の一隊がやってきます。

この時、凌雲は新政府軍の隊長に向けて「患者の命を助けるよう」に願い、「自分は存分に処罰してもらった構わない」と申し出ます。

この一隊を率いていた薩摩の山下喜次郎は、「一層、傷病者の治療にあたってもらいたい」と話し、箱館病院を保護します。

凌雲が保証の一筆を求めると、山下は「薩州改め 箱館病院」と記し、病院の掲げるように言いました。

 

凌雲の思いと行動を新政府側にも理解知る人物がいたのです。

以後、箱館病院は敵味方問わず多くの負傷兵の命を救いました。

 

戦後、市井に生きる

五稜郭に立て籠もった榎本武揚らは、最終的に新政府軍に降伏しました。

ところが、凌雲には処罰はなく、むしろその西洋医学の知識を求めて新政府に仕えるように誘いが舞い込んできました。

しかし、凌雲はその誘いを全て断り、鴬谷に診療所を開設します。

ここで、凌雲は貧しい人々へ無料で診療を行っていきます。

――私はパリで見た医師のように、今後は市井の医師として貧しい人々に尽くしたい――

この理想の実現に向けて取り組みを始めました。

 

将軍様の御典医様が我々を見てくれるということで多くの人が詰めかけるほどになりました。

このため、凌雲は一人で対応することの限界を感じ、組織だって治療をするため「同愛社」という団体を設立します。

この同愛社によって治療を受けた人は、70万人とも100万人ともいわれています。

高松凌雲写真

 

多くの人を救う町医者としての生き方を選んだ高松凌雲。

彼の行動は、赤十字精神を体現したものとして、として今の日本の医学界に受け継がれています。

(筆者・黒武者 因幡)