タイガースの起源は越後にあり?タイガースの名が伝える物語

プロ野球でも1、2を争う人気球団、阪神タイガース。その歴史は古く、巨人についで日本で二番目に創設された球団です。

このタイガースとは、工業地帯として発展した阪神地区が、アメリカのデトロイトに似ていることから、このデトロイトを本拠にしたデトロイトタイガースからいただいたと言われています。

しかし、最近は、別の意見も出てきています。外山脩造という阪神電鉄初代社長を務めた人物にちなんだというものです。

ここでは、この外山脩造と彼に大きな影響を与えた越後長岡藩の河井継之助についてお伝えしましょう。

 

種明かしを先に

外山脩造の幼名は寅太と言います。この寅にちなんで、タイガースになったという説があります。

脩造は、当時の阪神電鉄の人々が、いえ、関西の人たちが誇りに思うほどの人物でした。初代日銀大阪支店長として関西財界の発展に寄与し、多大な功績を上げていました。

しかし、脩造はもともと長岡栃尾の庄屋の家に生まれました。脩造は学問が好きな青年に成長していきます。その脩造を実業家に導いたのが、脩造が師と慕った長岡藩家老の河井継之助でした。

脩造の生涯の師 河井継之助

 

河井継之助に目をかけられる

長岡藩家老の河井継之助は、先見の明に優れ、諸外国との交易を通じて日本が近代化する必要性を感じていました。そこで、長岡藩の改革に乗り出し、約2年で10万両を生み出しました。

他にも、江戸藩邸にある長岡藩牧野家の先祖伝来の家宝をすべて外国商人に高値で売り払い、それを元手に長岡藩の洋式化を推進していきました。

この時、当時日本に3門しかないガトリング機関砲を2門買いました。他にも、藩士全員にライフルを支給し、最新鋭のアームストロング砲も購入するなど、日本でもトップクラスの洋式化を進めていきました。

この方針をもとに、継之助は長岡藩が時代のイニシアティブを取る図を描きました。脩造は、この継之助の書生として、常の傍らにいました。一地方の藩では触れることはできない先進的な視点をもつ継之助の思想や行動を間近で接することができたのは、脩造にとって幸せであったと言えるでしょう。

幕末当時最新鋭の兵器だったガトリング機関砲(レプリカ)

 

戊辰戦争をやめさせようとした継之助

継之助は、オランダの商人のファブルブランドやプロシア(今のドイツ)の商人のスネル兄弟らと交流する中で、武士の世の終わりを感じていました。西洋諸国では商人が世の中を動かしていくことを知り、今のような幕藩体制の終わりも予見します。

しかし、継之助は長岡藩家老である立場も捨てることができませんでした。

本当は、長岡藩が軍艦を購入に、藩士たちを乗せて世界に向けて交易を行いたいという夢をもっていました。しかし、時代は大きく変わり、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が起こるのです。

 

継之助にとって、日本人同士の戦争など人材淘汰の無益なものでした。そこで、継之助は長岡藩はどちらにもつかない中立を宣言し、新政府側に、長岡が会津を説得し降伏させるので戦を止めるように北陸を進撃する新政府軍の幹部に進言しました。

しかし、新政府側は継之助の話を一蹴し、長岡藩を敵とみなしました。ここに至って、継之助は新政府軍との開戦を決意します。

継之助と新政府軍の話し合いが決裂した慈眼寺会見の間(新潟県小千谷市)

 

新政府軍を苦しめた継之助

いざ開戦すると、長岡藩は新政府軍を苦しめました。長州藩奇兵隊のリーダーだった時山直八や西郷隆盛の弟・吉二郎が戦死します。

また、山縣有朋も長岡藩の攻撃の前に命からがら逃亡したこともありました。この長岡戦線は、新政府軍の死傷者が他の地に比べて圧倒的に多く、戊辰戦争で最も凄惨な戦いだったと言われています。

しかし、新政府軍は長岡藩の物資補給港だった新潟港を制圧。また、戦闘中に継之助が重傷を負ったこともあり、長岡藩は新政府軍の前に敗れました。

 

継之助の遺言

脩造は、この戊辰戦争中、常に継之助に付き従っていました。長岡から会津に逃走する時も、負傷した継之助の傍にいました。

しかし、傷は深く、ついに継之助は、死を迎えます。臨終を前に、継之助は脩造を枕元に呼び、「お前を武士にしようと思っていたが、やめた。寅や、お前は商人になれ。これからは、商人が世を動かす。武士はおれが死ねば終わりよ」と言い残し、友人だった福沢諭吉への推薦状を渡し、継之助は自分の夢を脩造に託しました。

福島県只見町に残る継之助終焉の間(只見町 河井継之助記念館内)

 

実業界で活躍する脩造

脩造は、継之助の遺言を守り、福沢諭吉を訪ね、慶應義塾に入学。卒業後は、大蔵省に入省しました。

渋沢栄一の推薦で、大阪で銀行経営に携わりました。さらに日銀大阪支店の設立に関わり、そのまま日銀大阪支店の初代支店長に就任します。日銀退職後は、ビール事業(現在のアサヒビール)や電力事業・瓦斯事業(現在の大阪ガス)など多くの会社の設立や経営に関わりました。

その中で、脩造が描いていたのは、私鉄経営でした。ニューヨークの視察の際に、電気鉄道の模型を見て、私鉄経営を想い描いたと言われています。

1909(明治32)年に脩造は阪神電鉄の初代社長に就任し、創設に尽力しました。阪神電鉄は、日本初となる高速広軌の都市間電気鉄道として、大阪―神戸間の人や物資の輸送を高速化し、関西経済のさらなる発展に貢献しました。

外山脩造

 

タイガース誕生

1934(昭和9)年、読売新聞社がプロ野球「東京巨人軍」(現在の読売ジャイアンツ)を設立、プロ野球リーグ結成を各都市の有力会社に呼びかけました。それに応じて、阪神電鉄も1935(昭和10)年に「大阪タイガース」を設立しました。

この時のタイガースは社員の公募で決まりました。その名称は社員たちが誇りとした創業者・脩造の幼名「寅太」にもちなんでいるともいわれています。

その証拠として、戦前、甲子園球場には脩造の銅像が建てられていたのです。

太平洋戦争の金属供出によって、なくなってしまいました

継之助が越後で描いた夢を、その遺志を継いだ脩造が関西で実現しました。タイガースというチーム名は、その越後人の物語を今に伝えているとも言えるのではないでしょうか。

(筆者・黒武者 因幡)