田畑政治を5分で!日本のオリンピックと水泳に大きく貢献した

田畑政治(たばたまさじ)といえば、日本の水泳とオリンピックを語るには外せない人物ですね。

日本の水泳を指導しレベルをひきあげました。

今回は、田畑政治のかんたんな経歴エピソードや偉業について、紹介していきますよ。

 

田畑政治、プロフィール

田畑政治(たばたまさじ)
出身地:静岡県浜松市
生誕:1898年12月1日
死没:1984年8月25日
享年:85歳

新聞記者、水泳指導者

 

かんたんな経歴、何した人どんな人?

畑政治は1898年、静岡県の浜松市でうまれました。

家は造り酒屋を営んでいて、かなりお金持ちでした。

幼いころには周りの人たちに、「お前は長生きできないだろう。30歳にもなれば死んでしまう。」と言われてきました。

理由は、祖父や父が結核で早くに亡くなっていたからです。

そのため母は心配し、田畑が夏休みになると、近くに浜名湾がある別荘ですごしました。

そこで小さいころから彼はたくさん泳ぎました。

 

元の人たちが水泳部なるものをつくり、田畑もそれに参加すると、1位2位を争うほどの水泳の実力でした。

中学生のときに「盲腸炎」と「大腸カタル」を併発してしまいました。

これにより医者に「泳いだら死ぬよ」と言われ、水泳をあきらめました。

しかし、あきらめたのは泳ぐことだけで、彼は水泳の指導者となります。

競技者としてではなく、指導者としてナンバーワンを目指したのです。

 

すると、彼の中学は水泳大会で優勝しました。

それから「浜松を日本一の水泳大国にしよう」と考え、「浜名湾遊泳協会」を設立。選手の育成をはじめました。

高校大学にすすんでも、休みのたびに浜名湾に顔を出し、指導をしました。

 

2歳ころ、田畑は浜松を日本一の水泳大国にしたかったので、クロールが日本に伝わったらすぐにこれを導入しました。

また日本一になるにはそもそも全国大会がなければいけないので、浜松に大きな海水プールをつくり、全国大会をやりはじめました。

何度か他の学校に優勝をうばわれてしまいますが、数年後には田畑の指導する「浜名湾遊泳協会」が日本一となります。

 

5歳ころに大学を卒業すると、朝日新聞社に就職しました。

政治に興味があったという彼は政治部で働き、とても活躍しました。

当時の有名な政治家にも顔を知られ、交流するようになります。

 

日本は水泳を世界レベル強くするために、「日本水上陸上競技連盟」を設立しました。

田畑はこれの理事をつとめることになり、日本の水泳界の中心人物となりました。

得意で政治家を口説き、水泳界への補助金を得ることができました。

 

して1928年アムステルダムオリンピックへ、日本人選手を出場させました。

なんと、金メダルを含む合計3個のメダルを獲得しました。

これでイケると確信した田畑は、日本の水泳を世界最強にしようと奮いたちます。

田畑の熱烈な指導により、日本の水泳のレベルはものすごく上がりました。

 

4歳ころ、そうして迎えた1932年のロサンゼルスオリンピックでは日本人選手は大活躍。

金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個と、大活躍しました。

このころ、プライベートも充実し、菊枝(きくえ)と結婚しています。

 

4年後のベルリンオリンピックでは、金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個と、またまた大活躍。

このころから日本の水泳は、世界で一目おかれるようになりました。

 

1937年から起きた日中戦争のせいで、日本は政府からスポーツ禁止の規制をひかれます。

多くの競技団体は、強制的に解散させられました。

しかし、田畑は「日本水上陸上競技連盟」は絶対に解散させませんでした。

戦後、即この連盟を活動させ、名前を「日本水泳連盟」と改めました。

 

そのスポーツへの情熱が買われてか、47歳のときに日本体育協会の理事になりました。

さらに日本オリンピック委員会の総務主事にもなりました。

 

て、日本は次のロンドンオリンピックに向けて気合を入れていきます。

しかしまた問題が発生。

イギリスがドイツと日本のオリンピック参加を認めなかったのです。

政治面で仲が悪かったからですね。

田畑はなんとかしてくれないかと奔走しますが、だめでした。

 

怒って闘志を燃やした田畑は、ロンドンオリンピックと同じ日に日本で水泳大会を開催します。

そこでなんと、古橋廣之進(ふるはしひろのしん)橋爪四郎(はしづめしろう)の2人の選手が、世界新記録を叩き出します。

このタイムは同じ日のロンドンオリンピックでの金メダルよりも、余裕で速いものでした。

これにより、世界の水泳関係者に「本当かどうかわからないが、日本は超強いらしい」と知らしめることになります。

 

の後も、田畑は日本のスポーツの世界進出のために奔走します。

まず他のスポーツのお偉いさんたちにも「国際連盟に復帰してくれ」と誘います。

これがなかなか難しいのですが、水泳もアメリカ監督のキッパスが日本の味方をしてくれ、国際連盟に復帰できました。

しかし、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理におかれていました。

だから海外へ出るのは、許されないことでした。

 

そこで田畑は、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに訴えかけました。

田畑はマッカーサーの、スポーツへの理解と情熱があることを知っていたのです。

これに成功した田畑率いる日本水泳チームは、アメリカでの大会に出場。

この大会やっと、古橋廣之進(ふるはしひろのしん)と橋爪四郎(はしづめしろう)が正式に世界記録をぬりかえ、世界に衝撃をあたえました。

 

4歳ころ朝日新聞社を退職します。

それからは完全に日本の水泳のため、オリンピックのために生きます。

とくに東京オリンピック開催のために命をかけました。

 

政治家たちに訴えかけ、東京オリンピック開催を国家プロジェクトにしてしまいます。

自身も日本水泳連盟の会長として動きます。

そしてついに東京が、念願だったオリンピック開催権を獲得しました。

その後も育成指導、日本初の室内プールの建設など、日本の水泳の発展のために生きました。

 

年、パーキンソン病を長く患っていました。

食べ物をのどに詰まらせ呼吸困難による麻痺がのこり、車椅子生活となりました。

 

85歳のころ、ロサンゼルスオリンピックの直前に危篤状態になります。

しかしこれは奇跡的に回復。

このオリンピックを開会式から閉会式まですべてみました。

するとその2週間後、オリンピックに尽くした人生に納得したかのように息を引き取りました。

長生きしないと言われた人生は85歳までつづき、日本のオリンピック、そしてスポーツを語る上では外せない偉人となったのでした。

 

エピソードや偉業について

畑政治(たばたまさじ)についてのエピソードや偉業を紹介していきますよ。

 

クロールの伝来

22歳ころ、日本は初めて水泳でオリンピックに出場しました。

すると外国人はみんな「クロール」で泳いでいることを知りました。

当時日本に「クロール」なんてものはなかったので、衝撃をうけました。

日本は「横泳ぎ」が伝統とされていたため、みんなこれで泳いでいました。

結果はもちろん惨敗。すぐに日本中でクロールが流行りだしました。

田畑は浜松を日本一の水泳大国にしたかったので、クロールの時代になったらすぐさまこれを導入しました。

何度か他の学校に優勝をうばわれてしまいますが、数年後には田畑の指導する「浜名湾遊泳協会」が日本一となっています。

 

柔道と女子バレーボールを猛烈に推薦した

東京開催が決まったオリンピックで田畑は、柔道と女子バレーボールを強烈に推薦していました。

理由は、日本人選手が輝けるからです

そして、柔道は金メダル3個、銀メダル1個と、すべての階級でメダルを獲ります。

女性バレーも圧倒的な強さで金メダルを獲りました。

 

東京オリンピックでは、ただの組織の一員に。

実は1964年の東京オリンピックのとき、オリンピック組織委員会の事務総長を辞任させられています。

これは、当時のオリンピック大臣の川島正次郎と仲が良くなかったからです。

何かことあるごとにケンカしていました。

 

ついに川島正次郎は、過去のオリンピックでの田畑のミスを、揚げ足を取るように指摘し、事務総長を辞退させたのです。

田畑は、東京オリンピックのために力を尽くし、その実現に大きく貢献したのに、開催時にはただの組織の一員として応援するしかなかったのです。

 

最大のライバル・高石勝男

水泳界を真っ二つにしたのが、高石勝男でした。

高石勝男はもともと水泳選手で、過去のオリンピックで銀メダルをとったこともある凄い人です。

彼は、田畑が会長をしていた日本水泳連盟で、関西支部長をしていました。

そのときから実は、田畑のやり方に不満をかかえていていました。

 

すると高石は、東京オリンピックより8年ほど前に、日本水泳連盟の会長選に立候補してきました。

田畑への不満を爆発させ、打倒田畑を掲げ、水泳界のトップになろうとしてきたのです。

当時はだれもが田畑が会長だろうと考えていたので、水泳界は荒れました。

意外にも高石勝男も多くの支持を集め、水泳界は真っ二つになりました。

 

そして、1年だけという密約の元に、田畑がとりあえず会長になります。

そして1年後にきっちり田畑は辞任し、高石に引き継がれたのでした。

 

まとめ

ということで、
田畑政治を5分で!日本のオリンピックと水泳に大きく貢献したでした。

 

・日本のオリンピック、そして水泳の発展に大きく貢献した!

・新聞記者としての立場から、政治家たちに働きかけまくった!

・敵も多く、川島正次郎や高石勝男といったライバルたちとの戦いがあった!

・最期までオリンピック、水泳に尽くした人生だった!

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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