島津義久の生涯を解説!四兄弟の長男として九州統一に迫った大将

島津四兄弟といえば、兄弟が力を合わせて薩摩を盛り立てたことで有名な人物たちです。

その兄弟たちをまとめていたのが、長男であり当主でもある島津義久(しまづよしひさ)ではないでしょうか。

この記事では「三州の総大将たる素質が備わっている」と評された彼の生涯を、史料や文献をもとに解説していきます。

画像・島津義久像

 

若かりし頃は薩摩周辺の平定に腐心

天文2年(1533年)、島津義久は当時島津家の当主であった島津貴久の長男として生を受けました。

後年よく知られるように彼には三人の弟がおり、義弘・歳久・家久といった兄弟は同じく貴久の息子たちです。

 

義久が誕生した当時の薩摩は、島津家がトップとして君臨していたもののまとまりを欠いており、周辺の大隅国や日向国だけでなく薩摩国内にも彼らに従わない国衆たちが点在しているという有様でした。

そこで、貴久・義久親子はまず薩摩国の平定に乗り出していくことになります。

天文23年(1554年)に初陣を経験した義久は、国内で島津に敵対していた勢力を次々と征服・従属させていきました。

 

統一作戦中に家督を継承すると、元亀元年(1570年)にはついに国内を平定することに成功。

義久は勢いそのままに隣国にも攻め込み、天正元年(1573年)には大隅国を、天正5年(1577年)には日向国を服属させ、見事に三州の平定を果たすのでした。

しかし、日向を平定した際に日向国を治めていた伊東氏の当主義祐が豊後国の大友氏のもとへと落ち延びたため、大友方は「伊東の再興」を掲げて日向国へと攻め込んでくることとなるのです。

 

敵対勢力を打ち倒し九州統一目前まで迫る

大友氏の侵攻を迎え撃った義久は、彼らの大軍を前にして防戦を強いられていくことになります。

しかし、反撃体制を整えると多勢を寡兵で討ち取るための作戦「釣り野伏せ」を実行に移し、天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友の勢力を一気に蹴散らすこととなったのです。

 

ここでの大敗により大友の勢力は一気に衰退。

義久は肥後の相良氏を支配下に置くと、この時期に島津と並んで九州の地で勢力を拡大していた龍造寺氏と対立を深めていきました。

 

そんな最中、義久のもとに豊前の大名である有馬晴信から救援の要請が届けられました。

その内容は龍造寺氏の攻勢に耐えかねた有馬の勢力に兵を派遣してほしいというものでしたが、一説に2万~6万ともされる龍造寺の軍勢に対して有馬方の兵力は3千ほどと歴然とした差がありました。

さらに、大友氏の存在なども考えると島津方も国元から多数の兵を派遣することができず、動員兵力は最大で2千ほどという有様でした。

 

しかし、義久は不利な状況を承知で援兵を決断し、援軍の総大将として家臣であり弟の家久を指名しています。

派遣された家久は有馬方とよく協力し、戦の地を狭くぬかるんだ湿地帯の沖田畷と定めました。

 

そして、大軍をもって油断が生じていると見える龍造寺方を「釣り野伏せ」で一網打尽とし、大将の龍造寺隆信以下数十名の武将を討ち取る大勝利を収めて帰還したのです。

この戦勝により龍造寺は一気に凋落し、島津氏にとって九州の覇権は目前というところまで迫りました。

残るは耳川の後遺症から立ち直り切れていない大友氏だけという状態にあったのですが、進退に窮した大友宗麟が都の豊臣秀吉に救援を依頼したことで情勢がしだいに変化していったのです。

 

豊臣の介入によって夢潰えるも、家を存続させ望みを託す

大友氏の救援要請を受けた秀吉の手によって和議を勧める書状が義久のもとへ届けられましたが、彼はこれを無視するどころか秀吉を挑発するような返答を行ない、秀吉の怒りを買う結果となってしまいました。

秀吉から派遣された先発隊はなんとか戸次川で撃退することに成功したのですが、天正15年(1587年)に豊臣秀長を大将とした秀吉本隊が九州に乗り込んでくると、これに大敗を喫してしまいます。

 

進退窮まった義久は秀吉への全面降伏を表明し、なんとか所領自体は安堵を許されました。

しかし、島津家の中でも特に義久にとってこの時期は苦難の連続というべきものになってしまったのです。

 

まず、豊臣家は弟の義弘を当主として扱ったため、義久は中央政権において力をもつことができませんでした。

さらに、弟である歳久の家臣らが秀吉の朝鮮出兵に反対する騒動を引き起こしたため、彼の命令で義久本人が歳久を死に追いやらざるを得なかったのです。

 

苦難の時期は秀吉の死をもって一応の幕引きとなりましたが、その数年後には徳川家康石田三成の間で関ケ原の戦いが勃発。

ここで義弘が三成方として参戦してしまったため、戦後島津家はお取り潰しの危機を迎えます。

 

しかし、義久は関ケ原に関して中立の立場を取っていたため「出兵は義弘の独断である」という姿勢を崩さず、最終的には家康に藩の存続を許されたのです。

結局、義久は慶長16年(1611年)に79歳でその生涯を閉じ、彼の無念は江戸時代を通じて藩士たちに引き継がれ、幕末になってようやく花開くこととなります。

 

【参考文献】
「国史大事典」
三木靖『薩摩島津氏』新人物往来社、1972年。
新名一仁編『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』洋泉社、2018年。

(筆者・とーじん)