島津四兄弟の知名度を調査していくと、恐らく一番に来るのが義弘、その次を義久と家久が争う形になるのではないかと思います。
そして、確実に最下位となってしまうであろう人物が、三男の歳久ではないでしょうか。
逸話や記録の面からイマイチ人気の伸び悩む歳久ですが、彼も三州平定においては多大な功がある人物であるということを忘れてはなりません。
そこで、この記事では島津歳久(しまづとしひさ)の生涯を史料や文献に基づいて解説していきたいと思います。
薩摩の平定には多大な貢献をしている
天文6年(1537年)、歳久は島津家当主である島津貴久の三男として誕生しました。
若かりし頃の歳久を評した祖父の言葉に「利害を察する知略が抜きんでている」というものがあり、同じタイミングで評された三兄弟に比べてやや地味なのは否めないものの、目をかけられていた人物ではあったようです。
初陣は天文23年(1554年)に迎え、さっそくこの戦で活躍し島津方を勝利に導くという順調な滑り出しを見せます。
しかし、翌年の蒲生城攻めという戦いにおいては、彼自身はよく戦い奮戦ぶりを評価されているものの島津軍全体が敵の罠にかけられてしまい、歳久が負傷したうえに戦にも敗れてしまうという挫折を経験しました。
もっとも、弘治2年(1556年)には蒲生城を治めていた蒲生氏が救援を得られず孤立したことにより、翌年にかつての復讐を果たす形で蒲生城を陥落させることに貢献しています。
その後は激化していく国衆との戦で存在感を発揮し、永禄5年(1562年)には北原氏という一族の旧家臣が立てこもる横川城を攻め落とす功を挙げ、結果として永禄6年(1563年)には薩摩吉田領の統治を任されます。
また、同地にあった吉田城という城の管理をも命じられるなど、順調な出世を遂げていました。
さらに、永禄11年(1568年)には敵対していた菱刈氏という一族が守る城を攻め、支配下に置きました。
こうして薩摩国内の国衆を次々打倒していった島津氏は、元亀元年(1570年)にかねてからの悲願であった薩摩平定を果たすのでした。
病を発症してからは戦への参加がなくなってしまう
薩摩を平定した後は、隣国である大隅や日向への攻勢を強めていきました。
歳久もそれに従い、元亀3年(1572年)には大隅の小浜城を攻略。
強まる島津の圧力をかわしきれなくなった大隅が事実上の支配下に置かれると、間もなくして日向の当主である伊東氏が国外に追われたことで同国の制圧も完了しました。
この後、天正3年(1575年)には弟である家久の後を追うように上洛を果たし、京都で公卿や文化人と交流を深めました。
弟が残した記録から想像すると歳久にとっても新鮮な発見が多かった旅であると思われ、彼の人生において最も充実した日々を送っていたのかもしれません。
帰国後はかつて平定した薩摩国内の祁答院領という場所を与えられ、同時に虎居城の城主として新たに任じられました。
この頃には九州の覇権をほぼ島津家が握っているという状態になっており、彼らは最後に残された豊後の大友氏攻めを敢行しようと目論みます。
歳久も当然ながらこの戦に従軍したのですが、天正14年(1587年)に彼を病が襲います。
手足にしびれを起こした歳久は国元への帰国を余儀なくされ、以後も手足が不自由になってしまいました。
この病は現代で言うところの痛風やリウマチに相当するものであると推測されており、ここから歳久は政治的な失脚を余儀なくされていきます。
大友氏を救援する豊臣秀吉との間に勃発した戦にも参加することは出来ませんでしたが、彼自身は頑なに秀吉への服属を拒んでいました。
その結果、薩摩を訪れた秀吉に向かって部下を用いて矢を向けるという強硬手段にでるほどで、この際は両者ともに事なきを得ましたが、振り返ってみれば歳久にとってまさしく致命的な失敗となってしまうのでした。
秀吉に疑惑の目を向けられ最期を迎えることに
病を発症して以降は国内で療養に努めていた歳久。
しかし、朝鮮出兵に反対する島津家臣の梅北正兼という人物が一揆を企てたことによって彼の命運が大きく変化してしまいます。
この事件を耳にした秀吉は、騒動に加担した人物に歳久の手の者が多いという理由で歳久の処刑を命じるのでした。
知らせを受けた義久も秀吉に逆らうことはできなかったために、追っ手を歳久のもとへと仕向けることになります。
歳久としては疑いをかけられた以上島津のために自害することについてやぶさかではなかったようですが、家臣らがそれに猛反対しました。
最終的には、家臣の意見を受け入れつつ島津が危機に陥らないよう、追っ手たちとの果たし合いという最期を選択したようです。
家臣らはよく奮闘しましたが、ついには歳久ともども壮絶な討ち死にを遂げたようです。
こうして汚名を着せられたまま暗殺された歳久ですが、その死にざまが薩摩藩内を中心に語り草になり、現代でも彼を神として祀る神社が数多く点在しています。
【参考文献】
三木靖『薩摩島津氏』新人物往来社、1972年。
新名一仁編『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』洋泉社、2018年。
桐野作人「さつま人国史 島津歳久波乱の生涯」南日本新聞社、2015年。
(筆者・とーじん)