新一万円札の顔・渋沢栄一は日本資本主義の父だった!

2024年より新紙幣一万円札の顔となることが決定したことで、にわかに渋沢栄一に注目が集まっている。

私が渋沢栄一を知ったのは、司馬遼太郎の小説『最後の将軍』であった。

百姓の出ながら勤王の志士となり、その後一橋慶喜の家臣となるストーリーに胸を躍らせたものだった。

そして、明治維新後に実業家に転身した栄一の生涯は、近代日本経済の父と言うべきスケールの大きなものだったのである。

写真・渋沢栄一

百姓の出だった栄一

渋沢栄一は1840年日、武蔵国榛沢郡血洗島村(はんざわぐん・ちあらいじまむら)に豪農渋沢家の長男として誕生した。

渋沢家は百姓とは言え、農業だけではなく養蚕や藍玉の製造及び販売まで手掛けていたという。

そのため、農家と言うよりは商家的な環境で育ったと言えるだろう。

 

商才に恵まれた栄一は14歳の頃には、自分の判断で藍葉を仕入れることが許されたというから驚く。

栄一は商売だけではなく、学問や剣術にも励んだという。

学問は従兄である尾高惇忠の私塾に通い、儒教や頼山陽の『日本外史』を学んだというし、剣術は神道無念流を修めたというから武士と同様の教育を受けたものと思われる。

ちなみに、当時の日本では数多くの寺子屋や私塾が開かれ、農民も武士と同様の教育を受けることができ、裕福な農民の中には下級武士の「株」を買って武士となるケースもあったのである。

 

百姓から幕臣へ

19歳のとき、栄一に転機が訪れる。

江戸に出ることを許された栄一は海保漁村の門下生となったのである。

江戸での遊学の最中、栄一は北辰一刀流のお玉が池千葉道場に入門する。

千葉道場は尊皇攘夷派の門下生が多く、栄一もその思想に感化されていくこととなる。

 

1863年栄一は長州と連携して倒幕を行う計画を立てるが、尾高長七の必死の説得もあり、これを断念したという。

栄一は尊皇攘夷の聖地とも言える京に上るため、父から勘当されたという形にしてもらって上洛する。

京で栄一は江戸遊学の頃に知己を得ていた平岡円四郎に再会する。

円四郎が一橋慶喜(後の徳川慶喜)の家臣であったつてで、栄一は慶喜に使えるようになったという。

 

その後、慶喜が15代将軍となるに伴い、栄一は幕臣となる。

幕臣となった栄一は、1867年将軍の名代の徳川昭武と共にパリ万国博覧会に出席するためパリに渡航した。

栄一は当時最先端だったヨーロッパの産業を見聞し、大いに感銘を受けたという。

特に、フランスで鉄道に乗り、新聞を読んだ体験はその後の実業家としての活動の方向性を決定づけるものであったようだ。

 

そして、ベルギーで国王レオポルド二世に拝謁した際には、「 鉄の産出量及び使用量 の多い国は豊かで強国である」との言葉に触れ、殖産興業が富国強兵につながるとの認識を持ったとされる。

1868年の大政奉還時、栄一はパリに滞在中であったが、新政府の成立に伴い帰国を命じられる。

1868年11月3日栄一は横浜港に到着した。

 

維新後は実業家へ転身

維新後、しばらくは藩という組織は維持される。

この時期に栄一は慶喜の家臣であった関係で、新政府から静岡藩の勘定方となるよう命じられるが、栄一は何とこれを断ってしまったのである。

表向きは新政府の対応に筋違いの部分があり、納得できないというのがその理由であった。

しかし、実のところは「藩という機構も今後どうなるかわからぬから旧幕府の機構には深入りしないでおこう。」というのが本音であったらしい。

 

渋沢栄一の生涯をつぶさに見て感じるのは、このような英断が要所要所に見られるということである。

この、旧幕府的な機構とは一定の距離を置こうというスタンスが、栄一を実業の世界に向かわせることになる。

 

栄一は、まず新政府の大隈重信から大蔵省へ入省するよう要請される。

大蔵省では度量衡の制定、国立銀行条例制定など重要な業務に従事する。

しかし、経済・金融の制度だけ整えたところで、今の商業界の状況では日本の経済を発展させていくことは難しいのではないかという思いが日増しに強くなっていったという。

大蔵省内での大久保利通との対立もあって、栄一は1873年大蔵省を去る。

 

その後、渋沢栄一は実業界において水を得た魚のように活動を始めた。

第一銀行の創立を皮切りに、株式取引所(今の東京証券取引所)東京海上火災保(今の東京海上日動火災保険)など、その数500社以上とも言われる企業の設立に関わったといわれる。

会社経営において栄一は財閥的な形態をとらず、株式を市場に公開することで民間からの出資を募ったという。

財閥全盛の時代に、この「開放的経営」はかなり異色であったようだ。

 

また、鉄道・ガス・電気といった公益性の高い事業にも力を入れていたことも知られている。

彼はその根底にあった理念を「論語と算盤(そろばん)」であると語っている。

これは公益・社会貢献を重視しながら利益を上げていくという考えであるが、近年、この理念はますます重要性を増している。

 

お札の「顔」候補とノーベル平和賞候補

渋沢栄一が、これまでも幾度か「紙幣の顔」候補となったことがあるということをご存じの方もいると思う。

しかし、ノーベル平和賞候補となったことがあるという事実は、知らない方のほうが多いのではないだろうか。

実は、晩年の渋沢栄一が精魂を傾けたのは慈善事業と国際親善・国際貢献活動だったのである。

その民間外交活動が高く評価された結果、1926年と1927年にノーベル平和賞の候補にあげられたのだ。

 

あとがき

渋沢栄一の生涯というと、その実業のスケールの大きさに目が行ってしまいがちである。

しかし彼の言動をよくよく見てみるとその根底にあるのは、実業家は「正しい道理の富」を得ることに努めなければならないという考えであった。

昨今、金融危機などの際に「強欲資本主義」などという資本主義のネガティブな面が強調されがちである。

今一度、渋沢栄一の言葉に耳を傾ける必要性を感じるのは私だけではないだろう。

(筆者・pinon)

 

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