功績に死をもって報いられた悲劇の医師 イグナーツ

人間には常識に反する新たな知識に触れたとき、反射的にその知識・事実を拒絶するという習性があります。

この現象は「センメルヴェイス反射」と名づけられています。

この名称の由来になったのは、ハンガリー出身の産科医師 センメルヴェイス・イグナーツでした。

 

イグナーツは、その研究で多くの母子の命を救いました。

しかし、ヨーロッパ医学会は彼を嘲笑し、追放し、最後は死に追いやったのです。

今日は、悲劇の医師・イグナーツを紹介します。

センメルヴェイス・イグナーツ

 

人生の岐路は産科医師になったこと

イグナーツは、1818年にハンガリーのブダペストで商売を営む両親のもとに生まれました。

1837年にウィーン大学に入学し、医学を学びます。

医学博士の資格を取りましたが、希望の内科に職を得ることができず、産科医師の道を進むことになりました。

不本意ながら進んだ道が、イグナーツを波乱の人生に導いていくのです。

 

1844年、イグナーツはウィーン産科病院に配属になります。

さらに、ウィーン総合病院の第一産院に配属になりました。

このウィーン総合病院では第一産院と第二産院がありましたが、奇妙な現象が起こっていました。

第一産院では、産婦の約10%が、産褥熱など出産後の産婦の死亡率を記録していましたが、第二産院では、その数字が約4%程度に留まっていました。

 

産婦たちは第二産院での出産を望み、中には病院での出産を拒否し、自宅で産む産婦も出る始末でした。

しかも、こうした自宅や街中での出産の方が、死亡率が低いという事実にイグナーツは気付きました。

――なぜ、専門の医師がいる病院の方が産婦の死亡率が高いのだ!――

イグナーツはこの原因を探ろうと考えました。

 

原因をついに特定

イグナーツはまず、第一産院と第二産院の違いについて比較していきました。

しかし、技量や設備は両院ともに差はなかったのです。

次に、感染症を疑い、両院の人間の込み具合を比較します。

すると、死亡率の低い第二産院の方が人が多いということで、感染という考えも否定します。

 

悩むイグナーツに転機が訪れました。

友人の医師が、産褥熱で死亡した患者の遺体の献体解剖を学生の前で行っていた際に誤ってメスで自分の手を切ってしまいました。

その後、友人は産褥熱に似た症状で亡くなってしまったのです。

 

イグナーツは、この事実に悲しむとともに新たな仮説を打ち立てます。

それは、医師の手に何らかの汚染があり、それが産婦に感染させているという事実でした。

第一産院では医師が多くいましたが、そうして医師は授業や研究で遺体の解剖を行っていましたが、第二産院の助産師で運営され、遺体の解剖に関わっていなかったのです。

イグナーツは、医師の手についた何かが患者に感染をもたらしていると推定し、対策を立てていくのです。

 

対策は手洗い

イグナーツは、その汚染源を死体の粒子であると考え、出産前に塩素消毒を使って手を消毒するという方法を考え出します。

塩素は解剖台の臭い消しに使用されていたので、効果があるのではないかと考えたのです。

 

イグナーツが実践した消毒法によって、第一産院では、産婦の1847年4月の段階で18.3%の死亡率を記録していましたが、6月には2.2%に激減し、ついには死亡者なしを達成したこともあるほどでした。

イグナーツが考え出したこの「死体粒子理論」と消毒法は、多くの産婦の命を救う一方で、イグナーツ自身には悲劇をもたらすものになっていくのです。

 

冷淡な医師会

しかし、このイグナーツの結果に対して、ヨーロッパの医師会は冷淡でした。

現在の我々が常識として知っている衛生観念や最近の知識では、イグナーツの研究や主張は当然のものです。

しかし、細菌の存在がわかるようになったのはパスツールの研究まで待たねばならなかったのです。

そのため、当時のヨーロッパ医学界では、死体の粒子などという理論は、オカルト扱いされ、嘲笑されるか、無視されるかしてしまったのです。

 

さらに言えば、イグナーツの説は、当時の医師は社会的に高い地位を有する医師の手が不清潔であることを証明することにもつながりました。

それは医師にとっては受け入れがたい屈辱であったのです。

そのため、イグナーツの主張を軽視し、真剣に検討することを避けていたのです。

当時のヨーロッパでは瀉血が治療の中心でした。消毒は、確かに先進的過ぎるかも…

 

そして、ついにウィーン医学会はイグナーツを追放します。

失意のうちに、イグナーツは故郷のハンガリーに帰ったのです。

 

ハンガリーでも産褥熱撲滅に成功

1851年、イグナーツは、小さな病院の病院の名誉院長に就任しました。

この病院でも、産褥熱で死ぬ産婦が多く、悲しむ家族がいました。

イグナーツはここでも塩素消毒法を実践し、医院から産褥熱の撲滅に成功しています。

しかし、この実績にもヨーロッパ医学会はイグナーツを認めませんでした。

それどころか、イグナーツの説への攻撃を強めていきました。

この長年の医学界との対立がイグナーツの精神を蝕んでいったのです。

 

イグナーツの死

長年の医学界のからの無視や嘲笑、批判、攻撃にイグナーツは反撃に出ます。

「すべての産科医へ」という宛名で発表した反論では「手だ。あなた方の手が人を殺しているんだ」という過激な内容でした。

また、このころからイグナーツは酒に溺れ、女に溺れていきました。

 

こうしたイグナーツの変化に対して、支持する友人たちも離れていきました。

家族も困惑していきました。

そして、ついにイグナーツは精神病と診断され、精神病院へ隔離されてしまいます。

 

この病院から脱走しようとした際に守衛につかまります。

この時の傷がもとで、イグナーツは亡くなります。

1865年8月13日に死去。47歳でした。

葬儀は参列者数人だけという寂しいものでした。

 

細菌の発見

細菌学の祖 ルイ・パスツール

イグナーツの死後、パスツールの細菌発見によって、イグナーツの業績が見直されます。

また、結核菌の発見をしたコッホも、全ての病原は生きている限り発生するもので、生物学的なものであるとして、医師の意識も変えていきます。

こうした学会の変化もあり、イグナーツの業績は認められていくのです。

 

自分の発明した消毒法によって多くの産婦を救ったイグナーツ。

しかし、その功績は称賛されるべきものでしたが、死をもって報いることになってしまったのです。

早すぎた天才・イグナーツは、今、その名をとった「イグナーツ反射」という言葉にも名を残し、同じような悲劇が起こらないよう人間への戒めにもなっているのです。

ブダペストのセント・ロークシャ病院にあるイグナーツ像

(筆者・黒武者 因幡)