黒田官兵衛の関ヶ原、天下をとっていたかもしれない逸話

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天下の野望が潰えた時~黒田官兵衛の関ヶ原~

中国の土器・青銅器に「鼎(かなえ・てい)」というものがあります。

三本の足で鍋にあたる部分を支える形をしており、高足ですが、ひじょうに安定しています。これをもじって、3つの勢力が均衡を保った状態を「鼎立(ていりつ)」と表現することがあります。日本人にとって人気の三国志も、魏・呉・蜀の三国が鼎立した状態でした。

そして、日本でも天下分け目の戦いの際に、この鼎立状態を狙い、さらにその先の天下簒奪を狙った武将がいました。それが、黒田官兵衛です。

秀吉に天下を取らせた黒田官兵衛

 

秀吉が最も恐れた男

あまりに切れ者過ぎて、秀吉から頼られると同時に最も警戒されました。

ある時、秀吉の側近たちが秀吉の後、天下を取る力のある者は誰かという議論をしていました。あるものは「前田利家」といい、あるものは「徳川家康」だと言いました。

その話を聞いていた秀吉は、側近たちに「お前たちはわかっていない。私の死後に天下を取る者は黒田官兵衛だ」と言った、という逸話が残っています。秀吉が官兵衛を非常に評価しつつ、警戒していたことがわかります。

この話を聞いた官兵衛は、身の危険を感じて、隠居を申し出ています。そして、家督を息子の長政に譲りました。しかし、すぐには軍役から解放されず、小田原の陣まで秀吉の参謀として働き、その後、領地となった豊前(現在の大分県)中津の居城で隠遁生活を送ったのです。

 

東西両軍の対立

しかし、官兵衛は、再び戦の舞台に戻りました。そのきっかけは、1600(慶長5)年に激化した徳川家康と石田三成の対立でした。この結果、東西両軍に分かれて戦う関ヶ原の戦いに結びついていきます。

この時、息子の黒田長政は、家康方の有力大名として東軍に属していました。そして、長政は黒田家の主力を率いていたのです。

国許でわずかな兵力しかない官兵衛の許にも、東西両軍からの誘いが舞い込みます。しかし、旗幟を鮮明にすると、周辺の勢力との戦いに巻き込まれる可能性が高いので、当初、官兵衛は東西両軍にいい顔をして、時間を稼ぎました。

その間に、官兵衛は着々と第三極つくりを目指していたのです。

 

急遽、大軍を編成

官兵衛は、隠居後にも蓄財に励み、いざというときに備えていました。そして、三成挙兵の話を聞くや、中津城の金蔵を開き、領内はもとより、広く西国の牢人たちを募ります。その数は、1万。官兵衛は、寡兵の中津で一気に大軍を作り上げたのです。

そのころ、西軍に与して、豊後国への返り咲きを狙う大友義統の軍勢が、杵築に攻め寄せました。この杵築城は東軍の細川忠興の領地でした。細川家は、官兵衛に援軍を要請します。これを受け、官兵衛は杵築に向かい、西軍の大友義統との決戦を迎えるのです。

 

官兵衛、九州を席巻

9月13日、官兵衛は石垣原(現在の別府市)にて、大友軍と対峙しました。

戦いは序盤一進一退の攻防が続きます。旧領復帰を狙う大友軍の士気は高く、官兵衛の軍勢は苦戦し強いられました。しかし、官兵衛に長く仕えた井上之房らの活躍で、戦況を有利に進め、ついには大友軍を撃破しました。

大友軍(西軍)を打ち破った石垣原の戦いの図

勝ちに乗じた官兵衛は、臼杵城を落とし、さらには西軍の立花家の柳川に侵攻、同じく西軍に属した小早川秀包の久留米城にも軍勢を派遣し、包囲しました。この柳川城攻めには加藤清正も参戦し、官兵衛は柳川も下します。

そうして、わずかの間にほぼ九州全土を勢力下においた官兵衛は、最後に薩摩攻めにとりかかる予定でした。九州全土を切り取り、東西両軍の均衡が続けば、官兵衛の思うとおりになっていったことでしょう。

しかし、官兵衛の計算を狂わせる事態が出来しました。

 

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官兵衛の計算違いは息子の活躍

この時代、東西両軍に分かれて戦国時代のきっかけともなった応仁の乱は、15年にも渡りました。

官兵衛だけでなく誰しもが同様の経緯を辿ると踏んでいましたが、関ヶ原の戦いは9月15日のたった一日で決着がついてしまったのです。

東西両軍に匹敵する第三勢力を作り、鼎立状態を目指した官兵衛の野望は、西軍がすべて家康の軍門に下った瞬間に終わったのです。

 

この官兵衛の無念さを示すエピソードが伝わっています。

息子の長政が官兵衛に戦勝報告にやってきたときのことです。

長政は、西軍側の小早川秀秋や吉川広家らを裏切らせ、関ヶ原で東軍に勝利を呼び込んだ立役者でした。この時の話をする長政を官兵衛は苦々しく思っていたことでしょう。

そして、長政が「この功を賞してくださった家康公が、わが右手を直接取ってくださるほど褒めてくださったのです」と話すと、官兵衛は不機嫌そうに「その時、お前の左手は何をしておった」と詰ったそうです。

この言葉の意味は「家康がそこまで迫っていたのなら、左手で刺せたではないか」という意味でした。官兵衛が、苛立ちを息子にぶつけている様子が察せられます。

悩み多き後継ぎ黒田長政 だって本当に刺してたら黒田家滅亡ですよねえ……

 

なるにまかせて

なにはともあれ黒田家は長政の活躍によって、中津12万石から福岡52万石の大大名となりました。これだけでなく、官兵衛の活躍を賞するため、官兵衛の新たに加増や領地をという話も出ていましたが、官兵衛は全てを辞退し、以後、政治に一切関わることなく生涯を終えています。辞世の句は「おもひおく 言の葉なくて ついにゆく 道はまよわじ なるにまかせて」でした。

戦略や軍略でなさざるをなるようにしてきた官兵衛ですが、自分の天下取りの野望を打ち砕いたのが、自分が調略や軍略を教えた嫡男であることに、思うようにならない世の中の難しさを感じていたのではないでしょうか。なるにまかせて、というところに、そういった官兵衛の想いが感じられるような気がします。

(筆者・黒武者 因幡)

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