関鉄之介 桜田門外の変の実行、そして最期

安政6(1860)年3月3日、江戸幕府大老井伊直弼が桜田門外にて何者かに殺害されるという事件が起きました。

その出来事は「桜田門外の変」と呼ばれ、後の倒幕運動へ大きく影響を及ぼすこととなります。

この桜田門外の変の首謀者の1人とされるのが、関鉄之介(せきてつのすけ)でした。

今回は関鉄之介による桜田門外の変の実行、そしてその後を追っていきます。

関鉄之介肖像

 

尊王攘夷運動に参加

鉄之介は文政7(1824)年に水戸藩士関新兵衛克昌の子として、茨木健水戸市に生まれました。

幼い頃、藩校の弘道館で学び水戸学の影響を受けて、尊王攘夷運動に参加するようになりました。

 

安政2(1855)年、北郡奉行所与力となり、翌安政3(1856)年に、郡奉行であった高橋多一郎に認められて北郡務方に抜擢されました。

主に大子郷校(現在の茨城県久慈郡大子町にあった郷校)の建設や農兵の組織を行う一方で、水戸藩改革派の勢力拡大に尽力しています。

 

安政の大獄

安政5年(1858)年、鉄之介は高橋の指示を受け、越前藩・鳥取藩・長州藩へ遊説に赴きました。

しかしこの時、幕府の大老に座していた井伊直弼が勅許を得ないまま、アメリカと日米通商修好条約に調印し、13代将軍の後継者を徳川家茂に決定するなど改革を進めていました。

それに対し批判的だった尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らを井伊は一斉に処断します。

これが「安政の大獄」でした。

 

安政の大獄により影響が大きく鉄之介は、遊説で十分な成果を挙げることができず江戸に戻りました。

やがて安政の大獄が進行すると、鉄之介は高橋や金子孫二郎らと中心となり、井伊直弼の殺害計画を企てました。

江戸幕府大老井伊直弼肖像。これは、四男で与板藩最後の藩主であった井伊直安が描いたものです。

 

大老井伊直弼の暗殺実行

安政7年(1860)年3月3日、季節外れの雪が降り辺りは白一色でした。

水戸浪士の一行は、港区愛宕にある愛宕神社で待ち合わせをした後、桜田門外へ進行しました。

 

現地に到着すると、この日は雛祭りのため在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていました。

鉄之介ら一行は、武鑑を所持し見物客を装い、井伊が乗る駕籠が来るのを待ちます。

登城を告げる太鼓が江戸城中に響くと、それを合図として諸侯が桜田門をくぐって行きました。

 

そして、彦根藩邸上屋敷の門が開くと、井伊を乗せた駕籠とともに彦根藩行列がさあ蔵だ門を目指し進行します。

護衛の供侍たちは雪が降っていた為、刀に袋を掛けたり防寒着を着たり等、万一襲撃があった際の迎撃に出難く、襲撃側に有利な状況をもたらしてしまったのです。

 

江戸幕府が開かれて以来、江戸市中では大名駕籠を襲撃した前例はなく、この日の彦根藩行列は警備が薄かったとされています。

安政の大獄以降、井伊には不穏者ありとの情報が伝わっており、登城当日も警告があったにもかかわらず、敢えて捨て置いたとも。

 

行列が桜田門外に近づくと、水戸浪士の1人が駕籠訴を装い、供頭に近づき制止を振り切って斬りかかりました。

その浪士が行列の注意を引き付けている隙に、同じく水戸浪士の黒沢忠三郎(鉄之介との異説もある)が所持していたピストルを、井伊の乗る駕籠めがけて発射しました。

これを合図に浪士全員が抜刀し戦闘が始まりました。

桜田門外の変の絵図です。錦絵で名を馳せた月岡芳年が描いたものです。

 

最初に発射された弾丸は、井伊の腰部を貫通し、居合の達人と称された井伊ですら実力を発揮できず、動けなくなりました。

徐々に護衛する者も減っていき、井伊には襲撃者の刀が次々と刺さり、駕籠から落ちたところを斬首され絶命したのです。

襲撃から井伊の絶命までは僅か十数分程度の出来事でした。

 

逃亡の果てに

幕府の大老が殺害されたとなると、幕府の探索も厳しくなります。

それを警戒した鉄之介は当初、薩摩藩などを頼って西へ逃亡しますが、薩摩藩はすべての関所を封鎖し他藩の者の出入りを一切禁じました。

 

次に故郷水戸藩へ行き、文久元(1861)年に袋田(現在の久慈郡大子町)に入り匿ってもらいます。

さらに幕府の探索が強化されると、水戸藩領内を転々としつつ、越後に入ると湯沢温泉(現在の新潟県岩船郡関川村)田屋の芸奴滝本いの(関鉄之介の愛人)に匿ってもらうものの、同地にて幕府の追手により滝本と共に捕縛されます。

水戸に投獄された後、江戸送りとなり小伝馬の牢に投獄されます。

共に捕縛された滝本は、拷問を受けたの後牢獄内で命を落としました。

 

文久2(1862)年5月11日、小伝馬牢獄にて斬首されました。享年39歳でした。

井伊直弼が殺害されたことにより、江戸時代の倒幕活動が活発となり、やがて大政奉還の末江戸幕府が終わり、戊辰戦争を経て明治の世に移ります。

その流れにおいて関鉄之介は、水戸浪士(桜田門外の変に関わった18人の士は、桜田十八烈士と呼ばれる)の中でも、最も爪痕を残したのではないのでしょうか。

新潟県岩船郡関川村にある関鉄之介潜匿記念碑です。石碑の揮毫は、見附栄誉市民の入沢達吉によるものです。

 

東京都荒川区南千住の小塚原回向院にある関鉄之介の墓です。他にも、茨城県水戸市の常磐共有墓地にも墓が建立されています。

(筆者・風来坊 Ka-z