人並外れた膂力や武勇を誇る者たちは、他人から「鬼」と呼ばれ、惧れ敬われてきました。
そのような「鬼」と呼ばれた男たちを、不定期にシリーズで取り上げていきたいと思います。
初回は、関東北部の常陸において、北条氏康や伊達政宗といった名将を相手にして存在感を示した鬼義重こと佐竹義重(さたけよししげ)をご紹介してまいります。
義重7人斬り
佐竹家は、河内源氏の源頼義の三男・源頼光(新羅三郎義光)を祖とする源氏の名門です。
源義家(八幡太郎義家)の弟という方がわかりやすいかも知れません。
源氏の名門で関東でも一目おかれた佐竹家ですが、関東は武辺を誇る家が覇を競う地でした。
常陸や下野、武蔵周辺だけでも、江戸氏、小田氏、結城氏、南関東にも芦名氏、相馬氏、岩城氏といった家々に佐竹氏は囲まれていました。
そして、戦国時代の佐竹氏は、太田城を本拠に常陸北部を治めるのがやっとの状況でした。
その状況を大きく覆したのが、佐竹家十八代当主に就いた義重でした。
16歳で家督をついだ義重は、早くもその武勇を近隣に知らしめます。
北条軍との戦いにおいて、義重は迫る敵を一瞬にして7人斬り伏せました。
この武勇は、義重の七人斬りと呼ばれ、敵味方に知られました。
また、別の戦いでは、義重の振るった刀で敵は八の字(要するに脳天から真っ二つになったわけですね)になりました。
この時、義重が使った刀は、後に八文字長義と呼ばれます。
こうして戦いぶりで、敵味方から「鬼義重」「坂東太郎」と異名をつけられ、関東において存在感を増していきます。
そして、この義重の代に佐竹家は大きく発展していくのです。

北条家 伊達家との激戦
常陸を中心に覇を唱えた義重は、やがて、相模から武蔵にかけて進出した北条氏康・氏政や奥羽の風雲児・伊達政宗と何度も刃を交えることになります。
特に伊達政宗とは死闘を演じています。
その戦いは、奥州戦国史に残る激戦・人取り橋の戦いです。
この時、義重は宿敵だった芦名氏と和睦していました。
さらには、芦名氏には自分の息子の義広を送りこんでいました。
義重は、外交をもって芦名氏の本拠・会津地方を実質的に支配下においたのです。
また、敵対していた岩城氏、結城氏、石川氏などとも友好関係を結び、実質的な支配地を常陸中南部から南奥羽まで伸ばしています。
勇猛さと巧みな外交で佐竹氏は関東において大勢力を誇っていました。
この義重と会津地方に勢力拡大を狙う伊達政宗との戦いは必至でした。
天正13(1586)年、その義重と政宗は、安達郡人取橋付近において激突しました。
義重率いる連合軍は3万、政宗は7千といわれています。
戦いは義重有利に進み、義重の完全勝利間近になったとき、常陸からの急使が飛び込んできました。
北条軍が常陸に向けて進軍中との情報です。
手薄な本拠を突かれては、さすがの義重も撤退するほかはありませんでした。
この戦いは、義重にとっては、戦に勝って、勝負に負けたと言えるものでした。
この戦い以後、会津地方は伊達家に侵食されていきました。

外交の義重
勢力を拡大した伊達政宗と強力な勢力を誇る北条氏政に挟まれた義重は、窮地に陥ります。
その事態を打開したのは、やはり義重得意の外交でした。
義重はいち早く、豊臣家に臣従することを選択します。
義重は対立する政宗と氏政をけん制する手を打ったのです。
天正18(1590)年、豊臣秀吉は北条攻めを行いました。
義重も、豊臣軍に加わり、忍城攻めに参加しました。
この時の功績で、義重は常陸54万石を安堵されました。
この秀吉のお墨付きは、常陸一国の支配を認めるものでした。
そのため、義重に対立する豪族の討伐は認めらていたのです。
この討伐を通じて、義重は佐竹家の悲願だった常陸統一を果たすことができたのです。
関ヶ原 息子・義宣との対立
時代は変わって秀吉死後のこと。
石田三成を中心とする西軍と北条家滅亡後、北条家に代わって関東の大部分を支配する徳川家康を中心にする東軍が対立しました。
いわゆる関ヶ原の戦いに向けて、日本中が戦闘モードに突入していきました。
この時、佐竹家の意見は2つに割れていました。
義重は既に隠居の身でしたが、まだ影響力は強く、家康に就くことを主張しました。
一方、現当主だった義宣は、三成に味方することを主張します。
義宣は、佐竹家のために便宜を図ってくれた三成に恩義を感じていたと言われています。
その律義さを認めつつも、生き残りを図るためには、鬼にならねばならないと義重は主張しますが、平行線。
結局、佐竹家は旗幟を鮮明にすることができませんでした。
このことが原因で、佐竹家は出羽・秋田に転封させられてしまうのです。
義重にとっては、無念の結果だったことでしょう。

晩年の義重
しかし、この結果を義重は受け入れ、不満は漏らさなかったと言われています。
と、いうのも、もし家康に味方したら、石高は大きく上げられるでしょうが、家康の本拠に近い常陸にそのままいられるわけはありません。
そのため、遠国に転封された上に警戒され、取り潰される惧れがあると考えたと言われています。
そのため、義重は秋田の統治は義宣に任せ、仙北の六郷城という支城で暮らします。
しかし、鬼義重は丸くなっていませんでした。
秋田は小野寺氏や秋田氏といった豪族が長年支配した土地でした。
そのため、新しい佐竹家に服属しない勢力が一揆を起こします。
その一揆が義重が籠もる六郷城を攻撃します。
この一揆勢を義重は寡兵をもって撃退しています。
鬼義重の前には、一揆勢も歯が立たなかったのでしょう。

年をとっても鬼義重は変わりませんでした。
その話をきっと知らなかった一揆勢は、鬼義重の姿を見て、惧れ慄いて逃げて行ったことでしょう。
(筆者・黒武者 因幡)