旗本最強の剣客~見廻組 佐々木只三郎~

旗本最強の剣客~見廻組 佐々木只三郎~

剣道をやった経験がある方は多いと思います。

そうであれば思い出してほしいのですが、剣道では、竹刀を左手で持ち、右手で抜刀します。

これは、江戸時代もそうでした。剣道は右手で剣を操るのが普通でした。

 

では、刀を右手にもったら何を意味したのでしょうか。

それは、相手に対して刀を抜かないことを意味しました。これが江戸時代の武士の共通認識でした。

 

しかし、左手が利き手の剣客はこの認識を逆手にとる者もいました。

その1人が、今回紹介するダークヒーロー 旗本最強の剣客 佐々木只三郎でした。

 

小太刀を極める

佐々木只三郎は、1833(天保4)年、会津藩士・佐々木源八の三男に生まれました。

そして、親戚だった江戸の旗本・佐々木弥太夫の養子に迎えられました。

 

只三郎は、神道精武流を学びました。

この中で、只三郎は小太刀を修め、その小太刀の腕は日本一と言われました。

只三郎はその腕を買われて、幕府の講武所の剣術師範を務めました。

 

ちなみに、只三郎の兄は、会津藩重臣の手代木直右衛門でした。

この兄弟は、やがて幕末の日本に大きな存在感を示していくことになります。

 

新選組の誕生に関わる

1862(文久2)年、只三郎は、兄の直右衛門を動かして、江戸での浪士隊募集を行います。

これは、14代将軍・徳川家茂が上洛する際にその護衛を務める役割を果たすために募集したものでした。

この浪士隊の募集は、庄内藩浪士・清河八郎の献策でした。

この浪士隊を率いて上洛した清河八郎は、突如、浪士隊を尊王攘夷の実行を命じます。

 

この命令に反したのが、近藤勇土方歳三芹沢鴨らの後の新選組を結成する面々でした。

いずれにせよ、己の野望のために利用されたことを知った只三郎は、清河八郎を危険人物と感じ取り、排除に動きます。

幕末に独特の存在感を示した清河八郎

 

清河八郎暗殺

1863(文久3)年4月、只三郎は麻布一の橋付近で、清河八郎を待ち受けました。

清河八郎は北辰一刀流免許皆伝の達人でした。

まともにやりあったら、只三郎とても無傷ですむはずはない相手でした。

しかも、これまでの経緯で、清河八郎も当然、只三郎に警戒心を抱きます。

 

しかし、只三郎は、刀を右手に持ち、にこやかに清河八郎に近づきます。

刀を右手にもって現れた只三郎に、清河八郎は、……只三郎に殺意無し……と感じ、警戒を解きました。

それこそ、只三郎の狙いだったのです。

 

刹那、只三郎は左手で抜刀し、清河八郎を斬殺しました。

同時に、浪士隊を牛耳る清河派を一掃し、浪士隊を江戸の治安を守る部隊・新徴組と改組します。

この新徴組は後に庄内藩の預かりになり、幕末最強ともいわれるの庄内藩の軍制の一翼を担っていくことになります。

 

見回組結成

1864(元治元)年、只三郎は、旗本の中から選りすぐりの使い手を選抜し、京都に上ります。

京都は、尊王攘夷派と会津藩を中心とする佐幕派が対立し、激しい対立が起きていました。

この見廻組は、既に京都で活躍していた新撰組とともに尊王攘夷派から恐れられていきます。

 

近江屋事件

見廻組が関わったとされる事件で最も大きいものは、1867(慶応3)年の近江屋事件です。

11月15日に近江屋に潜伏していた坂本龍馬中岡慎太郎の許に、十津川郷士を名乗る複数名が現れ、「才谷梅太郎先生はいらっしゃるか」と龍馬の下僕の藤吉に挨拶しました。

 

龍馬の変名を知っていること、十津川は古くから勤王志士の出る地であったことから、藤吉は龍馬に取次ぎをしようと、客に背を向けました。

刹那、客は刀を静かに抜き、藤吉を殺害しました。手練れの犯行でした。

そして、刺客たちは階上に駆け上がり、龍馬の頭蓋に一撃を加えます。

傍にいた慎太郎も小太刀で応戦しますが、複数の傷を負い、倒れました。

 

この襲撃に関わったのが、今でも誰なのかは諸説ありますが、明治になって見廻組隊士だった今井信郎が、龍馬の殺害を白状しています。

確かに、室内での斬り合いでは、太刀よりも小太刀の方が効果的であり、只三郎はその小太刀の名手でした。

龍馬暗殺の実行犯は只三郎らなのか。真偽のほどは定かではありませんが、この襲撃に佐々木只三郎が首魁として関わっていたと証言しています。

只三郎たち見廻組が最も犯人に近い存在だといえるでしょう。

只三郎ら見廻組が龍馬暗殺の有力な容疑者です

 

只三郎の最期

幕末の京都で新撰組とともに名をはせた見廻組ですが、彼らは幕府直参の旗本でした。

そのため、幕府の終焉とともに、見廻組も終焉を迎えます。

しかし、只三郎は、その前に歴史の舞台から姿を消しました。

 

1868(慶応4)年1月に始まった鳥羽伏見の戦いで、只三郎ら見廻組も幕府軍として参戦。

薩摩長州を中心とする新政府軍と戦いました。

只三郎も、白刃を振るって新政府軍と戦い、一進一退の攻防を繰り広げていきます。

しかし、戦いの最中、錦の御旗が新政府軍側に翻りました。

 

これが決定打になった、幕府軍は崩れていきます。

只三郎はなおも隊を率いて奮戦しますが、樟葉付近に戦線を引いたあたりで被弾し、腰に重傷を負いました。

指揮官の只三郎が離脱した見廻組もこれで戦線維持が不可能になり、敗走します。

錦旗が薩長に翻ったことで幕府軍は崩れました

 

見廻組は、紀州まで引きました。

この時、只三郎は致命的な傷を負っていました。

只三郎を見舞った兄の手代木直右衛門は、苦痛にゆがむ弟・只三郎に「お前はこれまで多くの人間を斬ってきた。これしきの苦痛を受けるのは当然のこと(だから、負けるな)」という兄だからこそできる激励を送ります。

この言葉には只三郎も苦笑するしかありませんでした。

 

しかし。この激励も只三郎の傷を癒すことはできず、只三郎は36年の生涯を閉じることになりました。

会津藩武家屋敷内にある佐々木只三郎の墓

 

幕末の激動の中で、幕府側の剣客として新撰組と並び称される見廻組のトップとして活躍した佐々木只三郎。

その墓は、陣没した紀州の紀三井寺の他に、会津武家屋敷の中にも墓が建立されており、今も訪れる人が手を合わせています。

(筆者・黒武者 因幡)

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