時代に捨てられた男たち~相楽総三と偽官軍事件
時代の変革期においては多くの血が流れます。明治維新でもそうでした。
幕府側と新政府側で戦い、多くの人が亡くなっています。
その中に、会津藩の白虎隊や二本松藩の少年隊のような悲劇もありました。
そして、そうした悲劇のひとつに挙げられるのが、赤報隊です。
ここでは、赤報隊と隊を率いた相楽総三(さがらそうぞう)という人物について、ご紹介して参ります。
俊英・相楽総三
相楽総三は、1839(天保10)年、下総相馬郡の郷士で富豪の小島兵馬の四男として、江戸・赤坂で生まれました。
父からも期待され、国学と兵学を学び、若くして私塾を開くなど、俊才ぶりを発揮していきます。
やがて、総三は尊王攘夷思想に影響されていきます。
各地を旅して、多くの同志も得ていきます。
さらに、総三は小島家から五〇〇〇両を与えられて、関東方面の義勇軍を組織化します。
尊攘派の中でも一目置かれる存在になっていきました。
1864(元治元)年、水戸で蜂起した天狗党の乱にも参加しますが、首脳部と対立し、離脱しています。
薩摩藩との接近
総三は、関東から京都に上って志士として活動をしていきます。
この総三を支援したのが薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らでした。
この出会いが、総三を時代の表舞台に引き出すことになります。

1867(慶応3)年、総三は西郷から江戸に行くように命じられます。
総三は江戸近辺での薩摩藩による討幕運動に加わることになっていきます。
戊辰戦争の引きがねをひかせる
1867(慶応3)年、徳川慶喜は大政奉還を発表し、政権を朝廷に返上しました。
このため、武力討幕を目指す薩摩藩は、倒幕の大義名分を失いました。
しかし、あくまで武力討幕を目指す薩摩藩は、幕府を挑発する役目を総三に命じました。
総三は、三田の薩摩藩邸を拠点に、江戸で浪士たちを募って、放火や略奪、暴行を働いていきます。
そして、悠々と薩摩藩邸に引き返していくことを繰り返しました。
また、栃木宿では、討幕派による挙兵騒ぎ(出流山挙兵)を起こすなどしていきました。
こうした総三たちの活動は幕府を刺激し、庄内藩や幕府兵たちが、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちします。
この件が戊辰戦争のきっかけになり、新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まっていきます。

赤報隊結成
総三は、江戸の薩摩藩邸から京都に脱出します。
そして、近江において討幕派の志士たちを集めて、赤報隊を結成します。
この赤報隊は、中山道を本体に先駆けて進軍します。
その際に、沿道諸藩に年貢半減を布告しながら進みました。
これは、どちらにつくかわからない諸藩を懐柔する目的で出されたものでした。
新政府軍首脳部も認めたものでしたが、この年貢半減については口頭で伝えただけで、文書に残していません。
つまり、公式文書として、年軍半減を新政府が認めた証拠は残していないのです。
この新政府側の思惑が総三たちを悲劇に導いていくことになるのです。

偽官軍として処断
赤報隊は、中山道を進みながら、各地で年貢半減を伝えていきます。
沿道諸藩の民衆たちは、年貢半減を聞き、つぎつぎと新政府を支持していきます。
総三たちは、かつての幕府の統治から新しい世の中をつくることで多くの人が幸せになると感じていました。
しかし、このままでは、年貢半減が先行し、大きな混乱や不平不満の火種になりかねないと判断した新政府軍首脳部は、年貢半減を撤回します。
もともと公式命令ではない年貢半減です。
撤回することにためらいはなかったでしょう。
しかし、総三たちは、この年貢半減で多くの人が味方につくと感じていたので、年貢半減を諸藩に伝え続けます。
そして、新政府軍の帰還命令を無視し続けました。
新政府軍も、総三たちの先行を許すことができなくなります。
そして、ついに新政府軍は赤報隊を官軍の名をかたって、各地で金品を強奪・横領を重ねているとして、「偽官軍」であると断罪し、赤報隊が入り込んでいた信濃の諸藩に赤報隊の捕縛命令を出しました。
総三たちは、小諸藩などの信州諸藩から追討を受け、敗れます。
そして、1868(慶応4)年3月、総三は、ついに下諏訪宿で新政府軍に出頭し、そのまま捕縛されました。
総三ら処刑
もし総三らが、薩摩や長州、土佐などの新政府軍の有力藩の藩士だったら、総三をかばう人物がいたことでしょう。
しかし、総三らは藩の後ろ盾を持たない浪士の集まりでした。
そのため、守る有力人物がいなかったのが、悲劇の一員だったと言えるでしょう。
総三ら赤報隊の幹部は、1868(慶応4)年3月3日、偽官軍の汚名を着せられたまま下諏訪宿で処刑されました。
そして、赤報隊も解散となり、諸藩の隊に吸収されていくことになりました。
偽官軍の汚名返上
沿道諸藩の懐柔工作に使われ、用が済んだらとかげのしっぽのように切り捨てられた赤報隊は、激動の時代の中で忘れられていくかに思われました。
しかし、1870(明治3)年、伊那県(現在の長野県南部を管轄するかつて存在した県)大参事(現在の副知事相当)に元赤報隊の落合直亮が、赤報隊の碑の嘆願を行い、下諏訪宿で総三らが処刑された地に魁塚が建立されました。
また、総三の孫の木村亀太郎によって、名誉回復がなされ、総三には正五位が追贈され、ついに偽官軍の汚名を返上することができたのです。

総三たちが出した年貢半減は、果たして諸藩の民衆を懐柔する手段に過ぎなかったのでしょうか。
そうしたものと割り切っていたら、総三らは固執しなかったのではないかと筆者は思います。
幕末は一揆が多発した時代でした。
その原因は、幕府が諸外国と結んだ不平等条約で、日本の金が流出し、経済が混乱したことでした。
生活に困窮した民衆が各地で一揆を起こしていました。
藩に属さずに、民衆の生活を間近で見てきた総三だったからこそ、年貢半減が民衆の希望になると考え、伝え続けようと考えたのではないかと思うのです。
下諏訪町に今もあるこの魁塚には、今でもお参りする人が絶えません。
この塚は、時代の変革期に起きた赤報隊や総三たちの悲劇を伝え続けてくれています。
(筆者・黒武者 因幡)