押川春浪の生涯に迫る!小説と野球に没頭した早世の文豪

〜小説と野球に没頭した早世の文豪・押川春浪の生涯に迫る!〜

皆さんは「押川春浪(おしかわ しゅんろう)」という人物をご存知でしょうか。

彼は明治期に文壇とスポーツ界で活躍しましたが、近年ではあまり語られることのない人物となっていました。

筆者は近代スポーツ史を専攻しているので以前からよく知る人物でしたが、一般社会では「忘れられた人物」であったともいえます。

 

しかし、絶賛放送中の大河ドラマ「いだてん」に春浪が登場したことで、彼を知る人がずいぶんと増えた印象があります。

そこで、劇中では武井壮さんが演じる押川春浪はどのような人物だったのか、その生涯を解説していきます。

画像・押川春浪

若いころは「お騒がせ者」だった

1878年(明治11年)、春浪はキリスト教の一家に誕生しました。

彼の本名は押川方存(まさあり)なのですが、今ではペンネームとして用いていた春浪のほうが有名ですね。

春浪は幼少期に牧師であった父の押川方義に連れられる形で新潟や仙台へと移り住む「転勤族」として生活していました。

 

仙台の小学校を卒業後、春浪は単身で上京し明治学院に入学します。

そこで、彼は生涯の趣味である「野球」と出会うことになるのです。

当時の日本ではまだ野球がほとんど普及していませんでしたが、明治学院をはじめとする一部の旧制高校では指導を担当したアメリカ人のお雇い外国人たちによって野球が伝わっていました。

 

しかし、この出会いは彼の勉強を大きく妨害することになります。

野球に熱中した春浪は落第を繰り返し、見かねた父に父自身が設立した東北学院に編入させられます。

それでも彼のやんちゃはとどまるところを知らず、暴力行為により放校処分を課されます。

その後は札幌農学校・水産講習所にも入学しますが、どちらも退学するという相当ないわくつきでした。

 

小説の存在が春浪の生涯を好転させるキッカケとなる

数々の問題を起こし学校を渡り歩いていた春浪は、最終的に大隈重信が設立した東京専門学校(早稲田大学)に入学します。

そこでは正宗白鳥永井荷風らと親交を重ね、かねてからの小説好きであった春浪は『海底軍艦』という作品を発表。

この小説は遠縁にあたる巖谷小波という人物の目にとまり、同書は文武社という出版社から発売されることになります。

売り上げも好調だったようで、翌年には再販と『航海日記』という新作の出版も果たしました。

 

彼の執筆した冒険小説は好評だったようで、続々と新刊が発表されていきます。

また、小説の評判に感化されたのか、あるいは彼の創立した野球部が廃部に追い込まれたことによる副産物か、退学を繰り返したこれまでとは異なり東京専門学校を無事卒業しました。

さらに、1903年(明治36年)、彼にとって27歳の年に結婚を果たすなど、はたから見れば公私ともに充実した生活を送っていました。

 

もっとも、この時期には転居や過度の飲酒を繰り返していた形跡があり、精神的にはそれほど幸福とはいえなかったようです。

そして、この不摂生は結果的に彼の死期を大きく早めることになりました。

 

雑誌の主筆として文武両面で活躍をみせた

1904年(明治37年)に春浪は博文館という出版社で雑誌編集に携わるようになります。

彼は小説の執筆と編集の両面で活躍し、やがて編集長も務めるようになりました。

1908年(明治41年)には彼が主筆を務める『冒険世界』という雑誌が刊行され、冒険小説や旅行話が掲載されていたようです。

雑誌の売り上げも好調で、彼の好みが全面に反映されることになりました。

 

さらに、『冒険世界』では彼が熱中した野球をはじめとするスポーツ記事も取り上げられていました。

これはもちろん主筆を務めた春浪の嗜好が反映されてのことで、彼は同時にスポーツ誌への寄稿や『いだてん』でも触れられた「天狗倶楽部」の結成などに力を入れていました。

同時にスポーツ界全体にも投資を惜しまず、様々な競技会の主催や日本で初めてのオリンピック選手排出に大きく貢献しました。

 

こうした活躍は春浪の死後成し遂げられる日本プロ野球の創設やオリンピックの普及に大きな効果があり、現代で彼の功績を語る際には小説よりも先にスポーツの話題が登場することがほとんどです。

 

スポーツ好きが春浪の人生を狂わせ、失意のうちに亡くなる

しかし、春浪のスポーツ愛は結果的に彼の人生を大きく狂わせることになります。

そのきっかけは1911年(明治44年)に東京朝日新聞上で「野球と其害毒」という連載がはじまったことでした。

新渡戸稲造乃木希典といった知識人による野球へのネガティブな寄稿は大きな反響を呼び、俗にいう「野球害毒論争」を巻き起こします。

 

当然ながら野球好きの春浪は同記事に猛反発しますが、彼の雑誌で反論記事を掲載するか否かで博文館上層部と対立。

激高した彼は雑誌を捨て退社することになりました。

 

その後、『武侠世界』という雑誌を創刊し好調な売れ行きを示しますが、「害毒論への反発記事が騒ぎとなり春浪が謝罪する」「春浪の名を騙った小説が勝手に出版される」など、しだいに運命の歯車が狂いはじめます。

そして、1913年(大正2年)には過度の飲酒がたたり体調が悪化。

結局彼の体調は好転することなく、同年末に脳膜炎により失意の中この世を去ることになりました。

 

【参考文献】
横田順也・曾津信吾『快男児 押川春浪』徳間書店、1991年。
横田順也『快絶荘遊〔天狗倶楽部〕明治バンカラ交遊録』早川書房、2019年。

(筆者・とーじん)