赤穂浪士の討ち入りと言えば、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の筋書きがあまりに有名なため、美談として歴史に登場することが多い。
しかし、大石内蔵助が討ち入りに切実なある思いを抱いていたことはご存じだろうか。

前半生
大石内蔵助は1659年に赤穂藩家老である大石良昭を父として生を受けた。
少年の頃に山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれる。
1679年21歳のときに正式な筆頭家老に任ぜられるが、茫洋とした人物と評されていたようで、「昼行燈」というあだ名まで頂戴している。
1686年には豊岡藩家老の娘りくと結婚し、3男1女を儲ける。
そのうちの1人が、後に父とともに討ち入りを果たす大石主税(ちから)である。
松の廊下刃傷事件
1701年、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、勅使下向の御馳走人(接待役)を仰せつかっていた。長矩は無難に役目を果たしていたとされる。
ところが、同年3月14日江戸城松之大廊下で、長矩は吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかるという事件を起こす。
刃傷に及んだ際に、「この間の遺恨覚えたるか」と言ったとされていることから、何らかの「遺恨」が原因であることは間違いないと思われる。
ところが、長矩が「遺恨」の詳細を一切述べずに切腹してしまったので、真相はわからずじまいとなってしまった。
長矩が御馳走人を務めた際の指南役が吉良であったから、接待を巡って何らかのトラブルがあったのかもしれない。
ただし、長矩は癇癪持ちにして精神疾患もあったという説もあり、吉良のちょっとした言動にキレて刃傷に及んだという可能性も0ではない。
ともかく、長矩は奏者番(そうじゃばん)であった陸奥一関藩主・田村建顕(たつあき)の江戸藩邸に預けられることになる。
長矩は田村邸にて即日切腹となり、お家は断絶、城地は没収が決定する。
一方、吉良の方は「お咎めなし」であった。
当時の武家法によれば「喧嘩両成敗」が原則であったから、赤穂藩で不満が噴出したのは当然のことであった。
幕府の裁定は、吉良が刀を抜いていない以上、喧嘩には該当しないというものであった。
赤穂藩浅野家断絶
刃傷事件の顛末は2度にわたる早駕籠によって、事件の4日後には赤穂へ伝えられていた。
赤穂藩取り潰しと知るや、藩内は大混乱に陥る。
大阪からは商人たちが押し寄せていた。
彼らが持っていた赤穂藩の藩札を正貨に両替してもらうためである。
大石は、取り潰される藩としては高い比率である額面の6割で交換したという。
商人たちはこのことを後世まで感謝し、このことが赤穂事件を『仮名手本忠臣蔵』という美談にまで押し上げる一因となったことは、あまり知られていない。
お家再興にかける執念
大石はともかく、家中の意見をまとめることが先決と考えていたようである。
『浅野綱長伝』によると、大石内蔵助は家臣たちを城に集め、今後の対応を議論したという。
主君の名誉回復と、浅野内匠頭の弟大学を藩主に据えての赤穂浅野家再興を考えていた大石は、籠城策には否定的であった。
籠城派の言い分は、吉良上野介がしかるべき処分を受けないのに城を渡すことはできないというものであった。
議論の末、とりあえず大石が出した結論は城明け渡しの上、「皆で切腹」であった。
このときの大石の真意は、表向きは幕府の「片手落ち」の裁定に死をもって抗議し、武士の一分を示すというものだったという。
しかし、実のところは誰が本当に命をかけて行動を共にしてくれるかを見極めようとしたという説もある。
というのもこの後しばらくすると、大石は「切腹」という言葉を発しなくなったからである。
ともかく、大石のこの判断により、赤穂城は明け渡しが決定する。
4月19日に城を無事に受城使脇坂淡路守安照らに引き渡したが、『江赤見聞記』によると、受け渡しの際に大石は幕府の上使に、浅野大学を立てての浅野家再興の嘆願を行っている。
大石の御家再興にかける執念は凄まじく、再興の望みが断たれるまでは吉良邸討ち入りは行わないという信念を頑として曲げなかった。
全ての処置を終えると大石は京都の山科に移り住んだ。
この頃から大石は御家再興運動を活発化させているが、御家再興運動にはもう1つの側面があった。
実は、『堀部武庸筆記』によれば、大石は御家再興だけでなく吉良上野介への相応の処分をも求めていたという。
浅野大学が赦免され、吉良上野介も処分されれば浅野家の面目が立つと考えていたようである。
これはつまり、御家再興及び吉良への処分がなされないのであれば、その時は討ち入りによって吉良を「処分」するということによって浅野家の面目を立てようということでもある。
大石は江戸に出ていた堀部安兵衛など討ち入り急進派の動きを統制しつつ、御家再興を粘り強く嘆願し続けている。
このやり方は急進派には手ぬるく思われていたようで、幾度か意見が対立することになる。
大石は、御家再興をあっさり諦めて討ち入りを行えば、吉良上野介の息子が養子となっていた米沢藩上杉家も黙っていないだろうと考えていたようである。
さらには、広島の浅野本家までもが断絶する危険性もあった。
御家再興を最優先にせざるを得ない事情が大石にはあったのである。
大石は赤穂遠林寺の僧祐海を通じて、将軍・徳川綱吉が帰依する真言宗護持院の隆光 大僧正に御家再興を願い出る。
しかし、御家再興が果たされることはなかった。
これで吉良邸討ち入りが決定する。
討ち入りとその後
1703年12月14日赤穂浪士47名は、本所松坂の吉良上野介邸に討ち入る。
かなり前から緻密な策を立て、吉良邸の間取りなどはしっかり把握していたらしい。
あまり知られていないことだが、討ち入りの際に浪士たちは口々に「火事だ」と叫んで乱入したため、吉良方の家臣は混乱し応戦に手間取ったという。
また、吉良邸には100名もの家臣が長屋に詰めていたものの、その戸を鎹で開かないようにしてしまったため、実際に戦闘に加わったのは40名に満たなかったといわれる。
見事な戦略である。
2時間あまりの激闘の末、遂に浪士たちは吉良上野介を討ち取ることに成功する。
その後、大石をはじめとする浪士たちは幕府の裁定により切腹に処されたことは周知の事実である。
しかし、この話には続きがある。
『諏訪家御用状留帳』によれば、幕府は浪士たちが切腹したその日、吉良家を継いでいた佐兵衛義周(よしちか)を、信濃高島藩主・諏訪安芸守忠虎にお預けにするという処罰を下した。
処罰の理由は刃傷事件の際の上野介の振る舞いが卑怯であり、討ち入りの際も未練がましい最期だったということだったのである。
幕府は建前では法秩序に従うことを武士に求めていたが、本音では敵に後ろを見せるのは恥という道徳観を肯定していたようである。
おそらく、大石内蔵助はそこに一縷の望みをかけたのではないだろうか。
大石が討ち入りにかけた思いとは、「武士のアイデンティティーとはなんぞや」というものだったのかもしれない。
まとめ
赤穂浪士の討ち入りが、単なる美談ではないことがわかって頂けたであろうか。
彼らにとって、吉良上野介を討ち果たすことは武士道徳の根幹にかかわることだったのである。
実際、討ち入りに多くの武士が感動して賞賛したという。
そういう意味で、彼らは後世「赤穂義士」と呼ばれるようになったのである。
(筆者・pinon)