岡田以蔵ってどんな人物?幕末のダークヒーローで愛すべき純粋な若者だった!

〜幕末のダークヒーロー?愛すべき純粋な若者? 岡田以蔵〜

生き物が生きるためには酸素が必要です。しかし、純粋な酸素は燃焼度が激しく、爆発的な燃焼を引き起こす危険な物質です。

純粋さは、その後ろに危険性を秘めていることがあります。それは、人に関しても同じなのかも知れません。

ここでは、純粋すぎた哀しい剣客・岡田以蔵をご紹介します。

 

土佐の足軽の家に生まれて

土佐藩は、日本で最も武士間の身分差別の激しい藩でした。

関ヶ原の戦の功で、土佐一国を与えられた山内一豊は、先に取り潰された長曾我部家の残党の抵抗に苦しめられました。

そのため、一豊は長宗我部家残党のリーダー格をだまし討ちにするという非情な手段をとり、むりやり勢力下に組み込みました。

長曾我部家の残党たちは下士とされ、役職などは一切つけてもらえず、山内家の家臣たち(上士)たちから、弾圧と差別を受けてきました。

 

以蔵は、そういった下士の中でも最下層の足軽の家に生まれました。

以蔵は、学問や剣を幼馴染であり、下士たちのリーダーである武市半平太に習いました。

以蔵は、剣の才能に恵まれ、半平太の開いた道場で頭角を現し、ついには師範代となって弟子たちに指導するまでになっていきます。

 

さらに以蔵は、半平太と一緒に江戸に出て、剣術修行を行っています。

この段階で、以蔵は武市半平太を純粋に尊敬し、その半平太から信頼を受けていることを誇りに思っていたことでしょう。

しかし、激動の時代が、以蔵と半平太の関係を大きく変えていくのです。

以蔵が心から慕った武市半平太

 

半平太の変化

江戸に出て、他藩の志士と交際する中で、世の流れは「尊王攘夷」に傾いていると感じた半平太は、土佐はこのままでは時流に取り残されると危機感を抱きます。

そこで、半平太は、1861(文久元)年、土佐勤王党を結成します。

この勤王党には坂本龍馬中岡慎太郎など後に土佐を代表する人物たちが加わっています。もちろん以蔵も、勤王党に加わっています。

 

しかし、実際に土佐藩を動かすのは前藩主・山内容堂と家老の吉田東洋でした。

東洋は開明派で、攘夷は無謀だと考えおり、半平太らの行動や意見を無視します。

そこで、半平太は、吉田東洋を暗殺し、土佐藩での影響力を持つにいたりました。

以後、半平太は変貌していきますが、以蔵は半平太を信じて、ついていきました。

 

人斬り以蔵

吉田東洋を排除した半平太は、山内容堂によって抜擢され、土佐藩の若手のリーダーとして活躍します。

半平太は、尊王攘夷運動を進めていきました。

しかし、攘夷に反対する人物たちも多く、運動は思うように進まないことも出てきました。

 

その時、半平太は以蔵に「あいつは日本のためにならないから斬れ」と命じました。

純粋な以蔵は、尊敬する半平太の命令を信じて、政敵の暗殺に手を染めていきます。

尊攘派が政敵を暗殺することを『天誅』と呼ぶようになっていきますが、東洋暗殺以後、天誅の味を知った半平太にとって、自分の言うとおりに行動する以蔵は頼りになる存在でした。

 

以蔵は、越後の本間精一郎や、大坂奉行所与力襲撃、儒者池内大学など数々の暗殺事件に関わっていきます。

半平太が仲間の前で「誰々は非常にけしからん」と演説すると、以蔵は姿を消し、話に出た相手を斬って戻ります。

その後、誰が『天誅』を受けたと報告があがってきた、という話もあります。

以蔵は天誅の名人とも人斬り以蔵とも呼ばれて行きました。それは純粋に半平太のためになると信じたからでした。

 

龍馬からの頼み

一方で、以蔵にはこんな逸話があります。

坂本龍馬が師とあおぐ勝海舟の護衛を頼まれ、以蔵は快諾しました。

海舟は、尊攘派が命を狙う開明派の筆頭でした。本来ならば、以蔵が斬り捨てるような存在でした。

しかし、以蔵は、海舟の護衛を務め、海舟が刺客から襲われた際は、以蔵は剣を振るって、刺客を追い返しています。

 

この時、海舟は、以蔵に「君はもう人を斬ることをやめなさい」と忠告しましたが、「でも、私が切らねば先生が死んでいました」と言い、返す言葉がなかったと後に述回しています。

以蔵を救おうとして海舟でしたが、叶いませんでした

この時、海舟は、以蔵を半平太から離し、龍馬と一緒の道を歩ませようとしていました。

龍馬は海舟が以蔵を自分のように教え導いてくれると期待し、以蔵が半平太と袂を分かつことを願ったのかも知れません。

 

しかし、半平太を慕う以蔵に、海舟の言葉も龍馬の想いも通じませんでした。

以蔵にとって、半平太は絶対の存在でした。

そして、それが以蔵の悲劇につながっていくことになるのです。

 

転変

1863(文久3)年8月18日、尊攘派の長州藩が京都から追放される八・一八日の政変がおきました。

これを機に、容堂は、半平太の利用価値がなくなった判断し、掌を返して、勤王党への弾圧を始めました。

半平太をとらえたのを皮切りに、勤王党に加わった下士・郷士たちを次々ととらえ、拷問を加えて、半平太の罪状を白状させようとします。

画像は山内容堂。半平太を利用しつくし、最後は捨てました

以蔵は、京都周辺で潜伏していましたが、ついに捉えられ、土佐に送られることになりました。

自分の暗部を知っている以蔵が、拷問に耐えられず自白すると考えた半平太は、同志たちを使って、以蔵の毒殺を計画しました。

 

この毒殺計画は未遂に終わりましたが、半平太の計画であったと知った以蔵は、ついに全てを白状します。

信頼していた半平太が、自分を利用しただけに過ぎなかったと知ったとき、以蔵を支えていたものが消えたのでしょう。

この以蔵の自白がきっかけになり、半平太には切腹の沙汰が下り、土佐勤王党は壊滅しました。

また、以蔵は、罪人として切腹は許されず、斬首に処されます。

 

辞世の句

以蔵は処刑される前、次の句を残しています。

『君がため 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空』

半平太を信じた以蔵は、半平太に利用されたに過ぎない自分の存在をどのよう思っていたのでしょうか。

以蔵が残した辞世の句には、自分の愚かさへの自嘲と悲しみが込められているように感じます。

高知市の竹林の中にたたずむ以蔵の墓

(筆者・黒武者 因幡)

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