小栗忠順とはどんな人物か、新政府軍が最も恐れた男 

〜新政府軍が最も恐れた男 小栗忠順〜

日本が明治になって近代国家を建設できたのは、ある一人の人物の先見の明があったからでした。

その人物とは、西郷隆盛でも、大久保利通でも、渋沢栄一でもありません。

その人物とは、幕臣の小栗忠順(おぐり ただまさ)という人物でした。

 

しかし、忠順は日本の近代化への道筋を作りながら、新しい世を見ることなく、亡くなっています。

ここでは、新政府軍が最も恐れ、最も感謝した男、小栗忠順をご紹介しましょう。

小栗上野介忠順

 

アメリカに渡る

安政7(1860)年、江戸幕府は咸臨丸とポーハタン号の2隻に、多くの幕臣を乗せて、使節として派遣しました。

名目は、日米修好通商条約の批准でした。

この使節団の中に当時目付け役だった忠順も加わっていました。

使節団長は別にいたのですが、忠順が余りにも落ち着いていたことから、使節団長と間違えられることがたびたびあったそうです。

真ん中が正使で団長の新見正興 右が小栗忠順 外国人との交渉を経験していた忠順はとても落ち着いていたようです

 

周囲の人間が初めて目の当たりにするアメリカ社会に浮かれ、驚くのを尻目に、忠順は冷静にアメリカ社会を観察しました。

そして、忠順はアメリカのお土産として、ネジを持ち帰ったのです。

このようなものを持ち帰ったのは、忠順のみでした。

 

忠順は製鉄所、造船所を見学した際に、日本もこのような設備を作らないといけないと強く感じたのです。

しかし、その造船のために鉄と鉄を隙間なく締め付け、接着するネジを日本ではまだ作れなかったのです。

――これを日本で作れるようになれば、日本は変わる――

当時の日本が、開国か攘夷かで二分している時勢に、忠順はその先の近代国家・日本をイメージしていたのです。

 

製鉄所をつくる

帰国した忠順は、外国奉行を、ついで勘定奉行に就任しました。

勘定奉行時代には、幕府老中に掛け合って製鉄所の造成を開始します。

ただ、多額の費用がかかるので、反対派が出ることを予想した忠順は、はやばやとフランスに必要な機械と人員を発注してしまいます。

さらに、製鉄所の建設地を横須賀に決定し、準備を推し進めました。

 

この迅速な動きに、反対派が気付いた際は時は既に遅し。

発注を断ったらフランスとの外交問題に発展する可能性もあり、追認せざるを得ませんでした。

この製鉄所では、製鉄だけでなく後に造船所として計画されました。

そして、この製鉄所のトップにフランス人 レオン・ヴェルニーを招聘し、フランス式の経営や人事労務管理を導入したのです。

 

箱モノを作るだけでなく、長期的視野に立ち、運営の方法まで日本に取り入れようと考えていました。

忠順の思い描いていく近代国家に向けて、大きな一歩を記録したのです。

 

幕府の軍事力増強を図る

忠順は、製鉄だけでなく、その技術を活かして、小銃や大砲の国産化や火薬・弾薬の国産化に踏み切ります。

最新鋭の銃器、弾薬を日本国内で製造し、幕府陸軍の戦力拡充に貢献します。

さらに、フランス式の軍制を敷くため、フランスから軍事顧問団を招聘し、幕府陸軍の教育を依頼します。

 

この他、大坂の有力商人から100両を拠出させ、貿易商社を設立します。

これは、大資本の商社が日本になく、海外貿易で価格面で不利益を被っている現状を憂えて、大資本の商社を設立し、輸出入において、日本商人が海外の商社と渡り合うための手助けをすることを狙いとしました。

 

さらに、外国人が日本において滞在できる本格的なホテルの建設に着手しました。

これらは、明治政府が明治になってから行った政策と全く同じです。

明治になる前から、忠順は近代国家建設に着手していたのです。

 

戊辰戦争始まる

慶応4(1868)年1月、幕府軍と薩長を中心にする新政府軍が鳥羽・伏見で激突し、戊辰戦争が始まりました

この戦いで、徳川慶喜は朝敵になり、大坂を脱出し、江戸に逃げ帰りました。

 

多くの幕臣たちが、右往左往する中、忠順は新政府軍との戦いを主張します。

・幕府陸軍の精鋭を箱根に派遣し、防備を固める
・幕府海軍を海路から駿河湾に突入させ、新政府軍の補給部隊を殲滅。
・以後、新政府軍の補給路を封鎖

これだけで新政府軍は瓦解する と主張します。

 

しかし、既に恭順を考えていた慶喜は、忠順の意見を採用しませんでした。

そして、慶喜は勘定奉行の役職から忠順を罷免します。

忠順は、その後、彰義隊など徹底抗戦派から首領にと求められますが、「既に上様が戦わないと決した以上、自分には戦う理由はない」として、領地のある上野国の権田村で家族とともに暮らし始めました。

 

新政府軍が最も恐れた男

田舎で暮らす忠順ですが、新政府軍は主戦論者だった忠順を警戒していました。

いえ、幕府の力を短期間で引き上げた忠順を恐れていました。

そのため、新政府軍は、忠順を理由なく捕縛しました。

既に覚悟を決めていた忠順は、新政府軍の隊長に、妻子や娘婿の命だけは助けるように頼み、静かに処刑されました。

高崎市にある小栗忠順の墓

 

新政府側の人間が高く評価する忠順

幕府を倒し、政権をとった明治新政府が行った政策のほとんどが、忠順が既に行ったこと、行おうとしたことに焼き直しに過ぎませんでした。

佐賀の大隈重信は、「明治政府が行った政策は、小栗の模倣に過ぎない」と喝破し、日本近代陸軍の父・大村益次郎は、戦後、小栗の策を耳にし、「もし幕府が小栗の策を採用したら、我々は生きていなかった」と語っています。

 

そして、最も忠順を評価・感謝したのは、東郷平八郎でした。

明治38(1905)年に起こった日露戦争・日本海海戦において、当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎率いる日本海軍が殲滅したことは、世界中を驚かせました。

日本海海戦 戦艦三笠の艦上で指揮を執る東郷平八郎

 

戦後、この戦勝式典に、東郷平八郎は、忠順の娘婿・貞雄と忠順の孫にあたる又一を招き「日本海海戦で勝てたのは、横須賀製鉄所・造船所を建てた小栗氏のおかげ」と感謝したのです。

忠順が描いていた近代国家は間違っていなかったということを明治新政府の人たちは、認めざるを得なかったです。

 

幕末の日本で、誰よりも将来の日本の近代国家像を正しく描いていた小栗忠順。

歴史に「たら・れば」は無意味ですが、もし忠順が処刑されずに日本の近代国家建設に手腕を発揮していたならば、日本はどのような歴史を歩んだのか見てみたいという想いに駆られます。

(筆者・黒武者 因幡)

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