海外との交流が制限されていた江戸時代。
突如として、日本人による西洋風の絵画を描く日本人画家が登場しました。
その画家の出身地は、出島があった長崎でも、江戸でも大坂でもありませんでした。
その画家は、出羽国秋田藩士で小田野直武と言います。
なぜ、秋田の地で蘭画が花開いたのか。
日本美術史の奇跡とも呼ばれる秋田蘭画と小田野直武について、ご紹介して参りましょう。
平賀源内、秋田に向かう
余談ですが、秋田は鉱物資源の豊かな土地です。
日本で石油が採掘される数少ない地のひとつですし、院内銀山や阿仁銅山という鉱山もあります。
ただ、秋田藩は財政難に苦しんでいて、その打開策として鉱山開発に力を入れます。
その相談役として、第8代藩主・佐竹義敦は、1773(案永2)年に、平賀源内を招聘しました。
このことが、後に秋田蘭画の誕生に結び付くのです。

秋田についた源内は、宿屋で見事な日本画が飾られていることに感心しました。
宿の主人に作者を尋ねると、秋田支藩の角館藩の小田野直武という24歳の若い武士が描いたものだと知ります。
そこで興味を抱いた源内は、早速に作者の直武に面会を求めました。
源内は、藩主が招いた賓客です。
その賓客からの急な呼び出しに戸惑う直武でしたが、面会した源内の申し出に直武はさらに困惑します。
「お供え餅を真上から描いてほしい」
画力に自信のある直武は、その要望通りに描こうとしますが……、なんと直武は書けないのです。
実は、当時の日本画は立体的な絵を描く手法が確立されておらず、日本画の名手だった直武も、お供え餅を真上から描けなかったのです。
そして、源内は陰影を用いて立体的に描く手法を直武に教えました。
この源内と直武の出会いこそが、秋田蘭画が誕生した瞬間だったのです。

絵画留学で江戸に
実は直武と佐竹義敦は家臣と主君ではありましたが、その一方で、絵画をともに学び、研鑽する仲間でもありました。
そのため、直武と義敦は、平賀源内から画法を学び、西洋風の絵を次々と完成させていきます。
技術を教えれば、もともとの腕がある二人ですから、師の源内を超えていきました。
こうして、鎖国日本の中で、長崎から遠く離れた秋田で西洋画が突如として誕生したわけです。
さて、鉱山開発も一段落し、源内は江戸に変えることになりました。
しかし、さらなる技術を求める直武と義敦は、源内との別れを惜しみます。
本当に二人とも源内について江戸に行きたいところでしたが、義敦は藩主の為、江戸に自由には行けません。
そこで、義敦は直武を江戸詰めの役職につけ、源内の許で学ばせるようにしたのです。
直武は喜び勇んで江戸に向かったことでしょう。

解体新書に貢献
一方、江戸に戻った源内の許に、源内の友人の一人である若狭藩医・杉田玄白が相談にやってきます。
杉田玄白は、前野良沢や中川淳庵ら医師の仲間で、西洋の医学書「ターヘルアナトミア」の翻訳に携わっていました。
翻訳作業はある程度、完成に向けて進んでいたものの、医学書の絵を描ける絵師がいないことに悩んでいたのです。
源内は、その悩みを聞いて即断しました。
「それなら、日本で最高の描き手を紹介しよう。この人以上の西洋画の描き手はいない」
そして、源内は江戸に来たばかりの直武を玄白に紹介します。
恐縮する直武でしたが、絵の実力を認めた玄白たちは、直武に正式に協力を依頼します。
医学書が出版されれば、多くの人の命が救われる。
その際に、描かれた絵を多くの医師が頼りにするというその意義と責任を背負い、わずか半年余りの間に、寝食を削って、直武は図を描きます。
そして、直武は、日本史上に燦然と輝く「解体新書」に描かれている人体図などの貴重な絵を完成させたのです。

直武は、日本美術史と日本医学史に燦然と輝く功績を残した人物となりました。
ただ、直武自身は解体新書の序文で「下手なのに友人(※源内や玄白のこと、源内や玄白たちがこう書くように言ったようです)の頼みを断りきれなかったので、恥を忍んで書いた」旨の言葉を残しています。
しかし、この時、直武は間違いなく、日本一の西洋画家でした。
時代の潮目が変わる
しかし、直武にとって突如、大きな事件が起こります。
直武の師である源内が、1779(安永8)年、人を殺傷する事件を起こして入牢し、獄死してしまいます。
さらに、追い打ちをかけるように蘭学に理解のある老中・田沼意次の力に衰えが見え始め、守旧派の巻き返しが起こります。
その一環で、蘭学者への風当たりが強くなっていきました。
そうした中で、小田野直武も秋田に戻され、角館において謹慎を言い渡されます。
そして、1780(安永9)5月、源内の後を追うように亡くなりました。
直武の謹慎については、理由がわかっておらず、未だに謎です。

ただ、これ以降、義敦も源内と直武を失った悲しみからか、絵画に力が入らなくなっていきました。
それでも、義敦は司馬江漢と共作したりと秋田蘭画の灯を灯していきましたが、1785(天明5)年、義敦も亡くなってしまい、秋田蘭画は途絶えてしまいました。

秋田蘭画のその後
源内と直武の出会いから生まれた秋田蘭画は、わずかの間に輝かしい功績を残して消えてしまいました。
それは、花火のような存在だったのかも知れません。
しかし、花火は消えてしまっても、見た人の脳裏には残ります。
秋田蘭画の系譜は、司馬江漢や須賀川の画家・亜欧堂田善らに引き継がれ、やがて日本の絵画に大きな影響を与え続けました。
また、秋田にも開明的な文化の気風が残りました。
秋田義敦の蘭画は、薩摩の島津家や筑前の黒田家、肥後の細川家など西国の開明的な諸藩との交流につながり、戊辰戦争時も秋田藩は時代の流れを汲んで対処していくことにつながっていくのです。
(筆者・黒武者 因幡)