「織田信秀」信長の父として織田家の地盤を築いた武将の生涯に迫る!

織田信秀(おだのぶひで)といえば、姓からも分かるようにかの織田信長の父として著名な人物です。

息子が日本史上でもトップクラスの知名度を誇るため、どうしても信長の陰に隠れがちな武将ではありますが、彼自身も優秀な人物として知られていました。

そこで、この記事では織田家の地盤を築き上げた信秀の生涯を史料や文献をもとに解説していきたいと思います。

 

決して高くない身分の出ながら実権を握る

織田信秀は、永正8年(1511年)に織田大和守家の分家である織田弾正忠家に生まれました。

父は織田信定といい、守護代を務めていた本家大和守家に仕える清州三奉行の一角として知られていた人物です。

 

ここからも分かるように、信秀の家は「守護代一家の分家筋」という、決して高いとはいえない身分の出身でした。

しかしながら、当時門前町として繁栄していた津島を支配下に置くことで、財政的には恵まれた状態にあった一家でもあります。

 

信秀は若くから才覚を発揮していたようで、父の生前である大永7年(1527年)ごろには既に家督を譲られていたようです。

こうして弾正忠家当主となった信秀は、天文元年(1532年)に本家の大和守家や清州三奉行らと争い、その結果として尾張国で実権を握っていくようになりました。

 

なお、彼が低い身分の出ながら大いに出世を果たしたのは、彼の才覚もありそうですがやはり門前町を支配下に置いたことが大きかったようです。

津島を領有したことによる財政的な優位さは、後々まで信秀の権力を支えていくことになります。

 

順調に勢力を拡大していき、実質的な尾張国の主導者に

天文2年(1533年)または同7年(1538年)ごろ、信秀は奇策を用いて今川氏の支城であった那古野城を奪い取ると、同地を本拠として活動を開始しました。

さらに、津島と並ぶ二つ目の経済的基盤として熱田に着目。

ここに古渡城を建築すると、彼は同城を本拠にして那古野城を息子の信長へと譲り渡しました。

さらに、天文17年(1548年)には末森城を築くと、みたびこの地を本拠として定めました。

 

彼が何度も本拠を移すことができたのはまさしく経済的基盤を抑えていたことが原因であり、戦国時代であっても財政的に優位な一家が権力を握っていくことがよくわかりますね。

また、信秀は自身の権威を対外的に示すべく、貴族や朝廷との交流や彼らへの献金を欠かしませんでした。

当時は応仁の乱などの影響で京都が荒廃すると同時に幕府が財政的な問題を抱えており、信秀の支援は願ってもないものでした。

それゆえに、彼は本家や守護の斯波家をも上回る官位を手にしており、この時点で尾張国の実権を握っていたと考えても差し支えないでしょう。

 

さらに、こうした対外的な働きかけは他家もそれを認識しており、守護職にあった斯波家よりも対外的な立場で優位になっていき、しだいに他国から実質的な尾張国の実力者と認識されるようになるのです。

対外的には主に隣国の今川氏や斎藤氏と対決しており、天文11年(1542年)には今川家と小豆坂で刃を交え、これを打倒しています。

さらに、「国盗り物語」で著名な斎藤道三が美濃国守護の土岐頼芸を追放し、彼らの救援要請に応えるという形で美濃国に侵攻。

織田家は朝倉家と手を結び、道三を相手に有利な戦運びを展開していました。

 

このように、領国を実質的に支配し、対外戦争を優位に運び、さらには朝廷や貴族にも大きな貸しを作るなど、信秀の当主生活はおおむね順風満帆であったといえるでしょう。

それゆえに、「偉大な父と比べて息子(信長)はうつけ者だ」という言説が誕生したのです。

もっとも、那古野城を信長に譲っていることからも分かるように、信秀と信長は不仲どころか良好な関係を築いていたと推測されることも少なくありません。

信長の事績についても信秀の地盤がなければ達成は難しかったとみることができ、近年は信秀の再評価も進んでいます。

 

しだいに勢力が衰えつつある中、病に倒れる

順調に勢力を拡大していた信秀でしたが、天文13年(1544年)または同16年(1547年)に加納口の戦いで道三の策略に惨敗を喫します。

さらに、この時期にはふたたび今川氏との対立が激化していき、信秀は隣国との関係性を憂慮していました。

 

そこで、天文18年(1549年)には道三の娘である濃姫信長の正室として迎え、斎藤家との和議を図りました。

この誘いは道三の思惑とも一致したため合意に至ったものの、同年には配下の織田信清が反乱を起こし、さらに三河国の安祥城が今川氏に奪われるなど、内外共に苦しい立場に置かれてしまいました。

 

こうした危機的状況下で信秀は病に倒れ、そこから回復することがないまま天文18年~21年(1549年~1552年)の間に亡くなりました。

彼が築き上げた地盤は信長の勢力拡大に大きく貢献した一方で、かねてより叛意を見せていた織田本家ら一門を粛清しなかったことは彼の古さであるとされ、こうした難点が解消されるのは信長の時代を待つことになります。

 

【参考文献】
谷口克広『天下人の父親・織田信秀-信長は何を学び、受け継いだのか』祥伝社、2017年。
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興:戦国美濃の下克上』戎光祥出版、2015年。

(筆者・とーじん)

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