信長の弟、織田長益(有楽斎)は茶人だった!有楽流とは?

〜織田信長の弟有楽斎は茶人だった!有楽流とは?〜

織田有楽斎(うらくさい)という名前を聞くと、織田信長の親類か何かだとは思うが、どんな人かはわからないという人は多いと思う。

有楽斎は信長の実の弟である。

武将としての実績はさほどないが、当代一流の茶人であり独自の茶道を編み出したことでも知られる。

兄信長とは、正反対とも言える性格の持ち主である有楽斎の生涯はどのようなものだったのであろうか。

肖像・織田長益

 

本名は織田長益

有楽斎は本名を長益(ながます)という。織田信長の13歳年下の弟であるが、前半生の詳細は定かでない。

幼少期に病弱であったという説もあり、歴史の表舞台に登場するのは1574年(天正2年)頃である。

尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修したという記述が見られるからである。

 

一方、1561年(永禄4年)の信長の美濃攻めにおける森部の戦いが長益の初陣であり、戦いにおいて足手まといとなったという伝承もある。

確かにその後、長益は戦において折衝役を務めることが多かったので、敵を討ち取るのはあまり好きでなかった可能性はある。

 

本能寺の変

1582年(天正10年)6月2日本能寺の変が起こったとき、長益と信長の嫡男信忠は妙覚寺にいた。

その後明智勢と応戦すべく二条御新造に移り、1万にも及ぶ明智勢と1時間ほども戦ったという。

奮闘むなしく、明智勢が突入を開始したため信忠は自害する。

 

『武家事紀』によると、長益も自害の用意をしていたというが、たまたまその時、周囲に敵兵がいなかったため、自害すれば犬死に等しいと思い脱出したという。

ひょっとすると長益は自分の折衝能力が、信長・信忠なき後の織田家に必要と考えたのかもしれない。

 

利休との出会い

長益は本能寺の変前後から茶人として活動し始めたようである。

その師匠については、傳役であった平手政秀や武野紹鴎(たけの じょうおう)が挙げられるが、いずれも伝承であってはっきりしない。

確かなのは、豊臣秀吉の面前で千利休から相伝を受けたということである。
織田有楽斎と名乗り始めるのはこの頃のことと思われる。

有楽斎の茶は客をもてなすことを重んじ、温故知新によって創意工夫を加えていくものであったという。

1590年(天正18年)織田信雄改易後は秀吉の御伽衆となり、摂津国島下郡味舌(ました)に2,000石を拝領することとなる。

 

関ヶ原で見せた武勇

秀吉の死後、徳川家康前田利家が対立すると、有楽斎は徳川邸に駆けつけ警固している。

このことから、有楽斎が家康を高く評価していたことが窺えよう。

後に、石田三成と家康が対立し関ヶ原の合戦が起こった際も、有楽斎は家康の東軍についていることからもそれが見て取れるのである。

 

この関ヶ原の合戦において有楽斎は、石田隊の横撃部隊を撃退し、蒲生頼郷を討ち取る戦功を挙げる。

有楽斎らしからぬ猛将ぶりであるが、蒲生頼郷に関しては家臣の千賀兄弟が討ち取ったのを主君の手柄にしたという話も伝わる。

いずれにしろ、このらしくない奮戦ぶりには功を挙げて大名となり、家を存続させたいという執念のようなものを感じてしまう。

実際、この功績により有楽斎は家康より大和に3万2,000石を与えられる。

 

大坂の陣

大名となった後も、有楽斎は大坂城に出仕し続け淀殿を補佐したという。

実の姪にあたる淀殿と、その子秀頼のことを大層気にかけ、徳川と豊臣の調停役を務めていたようである。

大坂夏の陣では家康との和睦を成功させた有楽斎であるが、大坂夏の陣直前の豊臣方の足並みの悪さにはほとほと呆れたのか、家康・秀忠に許可を得た上で大坂城を退去したという。

許可を得る際に「誰も私の下知を聞こうとしないので城内にいても無意味だ」と語ったと伝えられている。

 

有楽流

大坂城を退去した後に、京都に隠棲した有楽斎は茶の湯に没頭する生活を送る。

その集大成が、有楽斎が再建した京都建仁寺正伝院内に立てた茶室如庵である。
ここで、有楽流茶道が確立されたと言っても過言ではないように思う。

有楽流茶道は武家茶道であり、その作法は簡素であるという。

さらに千家など町家の茶道とは異なり、武士は茶室においても短刀を左に差すことから、ふくさは右側につけるなど、独特な作法が見られるのも特徴である。

 

1615年(元和元年)8月有楽斎は隠居し、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を与えた。

長政の芝村藩と尚長の柳本藩では代々有楽流茶道が継承され、幕末を迎える。

明治以降は芝村・柳本織田家は子爵家として存続したが、武家のたしなみであった武家茶道には家元制度がなく、民衆からの認知度はそれほど大きくなかっようである。

しかし、昭和になって有楽流を習い覚えて、教授できる人々が増えてきたこともあり、芝村織田家を宗家とする有楽流が再興されたのである。

現在有楽流宗家は17代織田宗裕氏が当主を務めている。

 

まとめ

織田有楽斎の生き様を見ていると、何だかんだ言ってもやはり彼は武士なのだなという結論に達するのである。

武名をかけて戦い、万策尽き果てたら潔く死ぬというのも武士であるが、家が断絶せぬよう心がけるのも武士であろう。

また、大将たる者は徒にその身を危険にさらしてはいけないという教えもある。

信長にしても本能寺の変を起こしたのが切れ者の光秀でなければ、隙を見て、あっさり本能寺を脱出したかもしれない。

「生きててナンボ」と考えていたという点では、有楽斎も信長もあまり変わらないのではないか。

有楽斎の「生き残らなければ」という強い思いが、時代を超えて有楽流を絶やさない原動力となっている気がしてならないのである。

(筆者・pinon)

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