仁科信盛とは 武田家の意地と名誉の象徴

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〜武田家の意地と名誉の象徴 仁科五郎信盛〜

長野県民なら誰でも歌えるといわれる県歌「信濃の国」。6番まであるこの歌は、5番で信濃を代表する偉人が歌われています。

登場するのは、旭将軍義仲(木曾義仲)、仁科五郎信盛 太宰春台 佐久間象山の4人です。

この中に登場する仁科信盛(通例では盛信と書かれることが多いです。ただ、『甲乱記』において、信盛と記載しているので、ここでは信盛で統一します)は、武田信玄の五男として、弘治3(1557)年に甲斐国に生まれました。しかし、信盛の実績というと、最期に高遠城において、織田軍に対して意地の抵抗をみせたことくらいしか目立った事績はありません。その点では、他の3人に比べて見劣りがします。

その仁科信盛が、なぜ信濃で英雄として歌われるようになったのか、その時代背景をお伝えします。

仁科信盛

 

武田信玄の信濃侵攻

甲斐国を治める信盛の父である戦国大名・武田信玄は、先代の信虎がとっていた信濃との融和路線を破棄しました。そして、信濃諏訪の領主・諏訪頼重を攻めて自害に追い込み、諏訪領を支配下に治めます。

その際に、信玄は頼重の娘・諏訪御寮人を側室に迎えています。のちに、この諏訪御寮人との間に生まれた男子が、武田勝頼になります。

信玄は諏訪だけでなく、高遠氏・藤澤氏を滅ぼし、信濃を徐々に侵食していきました。

砥石城の村上義清には苦戦しますが、ついには義清を越後に追いやります。既にこの時、信濃守護の小笠原氏も力を失い、義清とともに越後に逃れていったのです。

JR甲府駅前にある信盛の父・信玄像

 

信濃諸将を重視

武田信玄の前に屈服した信濃諸将ですが、武田信玄はその名族としての影響力を重視し、その力を利用しようと考えました。

その最たる例が、諏訪氏です。諏訪家の血を引く勝頼を諏訪家の当主として、諏訪家臣団を統率させました。諏訪家は全国に広がる諏訪大社を統べる家ですので、宗教的影響力や財力を保持していたのです。それを武田家に取り込んでいったのです。

そして、仁科信盛もまた、信濃中央部の安曇郡を治める仁科盛政の養子として仁科家を継ぎ、武田信玄の信濃支配の一翼を担っていきます。

 

仁科家の家督を継ぐ

安曇郡は信濃北部にも近く、信濃の要衝でした。これより先は上杉謙信の影響力の強い地域に入っていきます。そのため、仁科信盛の守る地は、重要な地点でした。

養父である仁科盛政は川中島の戦いの折に、家臣団が上杉氏に内応したため、信玄が仁科盛政の居城の森城を攻略し、鎮圧した経緯がありました。

そして、信玄は盛政を自害に追い込み、当時5歳で養子である信盛を当主に据える荒業にでます。それだけ、この地を重視していた証拠だといえるでしょう。

画像・上杉謙信 謙信への備えとして仁科氏は重要な役割を果たしました

 

武田家崩壊へ

戦国最強と言われる武田軍団を形成した信玄でしたが、元亀4(1573)年に死亡し、歯車が狂っていきます。信玄死後、後を継いで武田家を率いたのが、信盛の義兄・勝頼でした。

勝頼は、織田信長徳川家康との戦いに力を注ぎました、その間、信盛は越後との国境を守り、謙信を信濃に入れなかったのです。

しかし、大きな転機が訪れました。勝頼が、信長・家康の連合軍に敗れたのです。天正3(1575)年の長篠の戦いです。

このあと、信長は、織田家と同盟関係にあった上杉謙信に武田領侵攻を唆しますが、信盛が守る越後と信濃の国境を超えることはありませんでした。

その後、勝頼は武田家の立て直しに奔走します。この武田家の勢力盛り返しに危機感を感じた信長と家康は、武田勝頼討伐を決定し、武田領に侵攻を開始します。天正10(1582)年のことでした。

信濃木曾口を守る武田家の縁戚である木曾義昌が織田軍に寝返ったのを皮切りに、信玄の代からの重臣・穴山梅雪が、家康に内応するなど、次々に武田の諸将が織田・徳川の軍門に下りました。

最強軍団とうたわれた武田家臣団は、誰もが予想しない速さであっさりと崩壊していったのです。

武田勝頼 実際には武田家当主ではなく陣代(当主代理)でした。

 

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信盛が見せた武田一族の意地

この織田徳川軍の侵攻の際、信盛は諏訪に近い高遠城を守っていました。高遠城は要地でした。高遠城を突破されれば、諏訪上原城で指揮を執る勝頼が危機に陥ります。それどころか、甲斐への侵攻を許すことにもつながってしまうのです。

信盛は、兄を、武田家を、甲府を守るための犠牲になる決意を固め、高遠城の防備を固め、織田軍の襲来に備えました。

今は桜の名所として知られる高遠城

天正10(1582)年3月1日、ついに信長の嫡男・信忠率いる5万の軍勢が現れ、高遠城を包囲します。信忠の脇を固める武将は、明智光秀、滝川一益、川尻秀隆、森長可といった織田家の有力武将が従いました。一方、守る信盛勢はわずか3千でした。

信忠は最初、降伏勧告を行いましたが、信盛は即座に拒否します。これを受け、3月2日、織田軍は高遠城に総攻撃をかけました。

寡兵ながら士気の高い信盛勢は、織田方で信長の従兄弟にあたる織田信家を討ち取るなど奮戦しますが、衆寡敵せず、城門を突破されると、もはやこれまでとばかりに信盛は自刃し、高遠城は落城しました。信盛26歳の最期でした。

この信盛の奮戦と死は、歴代の家臣や一族までもが勝頼を見捨てて織田軍に寝返る中、武田武士の意地を見せたものとして、長く語り継がれていったのです。

 

武田武士の復権

武田家は勝頼の死とともに滅亡し、武田家の武士たちは織田信長による徹底的な残党狩りに遭い、各地に雲隠れしました。いわば冬の時代を迎えた武田遺臣でしたが、時代が変わり、再び脚光を浴びる時がやってきました。

徳川家康が、武田の遺臣の能力や武勇を評価し、徳川軍に迎え入れたのです。特に勇猛をならした武田家最強部隊・赤備えの武士たちは、徳川四天王の一角に数えられる井伊直政につけられ、再び最強部隊の名声を取り戻していったのです。

武田の軍政を取り入れた徳川家康が、武田家の中でも忠義の鑑として評価したのが、ただ一人武田武士の意地を示した信盛でした。そして、徳川家が天下を握った江戸時代になると、信盛の戦ぶりは、武田遺臣たちの武勇のよりどころとなり、人々に語り継がれていきます。信盛は、いわば武田家の意地と名声の象徴だと言えるではないでしょうか。

こうして時代を経て語り継がれた信盛の高遠城の物語は、やがて信濃の誇りとして伝わり、現在の県歌「信濃の国」の中にもその名を残し、今も長野県の子供たちに郷土の英雄の1人としてその名を歌い継がれています。

(筆者・黒武者 因幡)

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