南部藩 楢山佐渡の武士道

1868(慶応4)年、新政府軍と幕府軍の間で始まった戊辰戦争

新政府軍の中心的存在だった薩摩藩や長州藩などの西国雄藩や、会津藩や庄内藩、桑名藩などの幕府側の中心とされた藩以外の諸藩は、その多くがどちらにつくかに悩んでいました。

奥州の南部藩もそうした悩める藩の1つでした。

 

そこで南部藩は、一人の家老を京都に派遣して動向を探ろうと考えました。

その家老の名は、楢山佐渡(ならやまさど)

藩の執政である佐渡自らが赴いて、決断しようと考えたのです。

今日は、楢山佐渡と南部藩の戊辰戦争の話をお伝えします。

楢山佐渡画像

 

幕末 混乱の南部藩

話は、戊辰戦争の15年前に遡ります。

江戸後期の気候は、小氷期にあたります。

そのため、南方の作物である稲はたびたび冷夏によって、大打撃を受け、南部藩は飢饉の被害に悩まされてきました。

 

そして、1853(嘉永6)年、不作と税に悩む南部藩の沿岸部の農民が大規模な一揆を起こします(南部三閉伊一揆)。

そして、この一揆は、日本史上初の農民一揆側の要求をほぼ全面的に受け入れ、首謀者の処罰もできないという武士の側が完全に敗北するという事態になりました。

南部三閉伊一揆像

 

この一揆を受け、藩政改革のために起用されたのが若手改革派の家老・楢山佐渡でした。

その改革に大きく貢献したのが、南部藩きっての切れ者の東政図です。

 

佐渡と政図は、藩政立て直しに協力してあたりました。

政図は、開明的な視点の持ち主でした。

そして、政図は人員削減を含む急進的な改革案を主張しました。

 

一方の佐渡も、改革の重要性を意識しながらも、大きな混乱と反発は、藩を大きく割ってしまうと考え、緩やかな改革を主張します。

この二人の立場の違いは、やがて、藩内保守派と急進派の対立に発展。

そのため、佐渡は、政図の能力や考えを理解しながらも、藩内の対立を避けるため、政図を罷免してしまいます。

そのような状況の中で、南部藩は戊辰戦争を迎えることになりました。

 

佐渡 京都に

鳥羽伏見の戦いが終わったあと、南部藩も去就を決めなければなりませんでした。

そのため、佐渡は京都に向かい、新政府側の重要人物たちと接触をします。

 

しかし、そこで佐渡が見たものは、武士とはいえないような兵士たちが、我が物顔で京を闊歩する姿でした。

佐渡は、西郷隆盛を面会した際に、西郷が浴衣のような服を着て、下級兵士と車座になって、食事をする場面での面会をします。

西郷は佐渡にも膳を勧め気さくに話しましたが、佐渡は「……これが武士に対する礼儀か……」と激怒しました。

西郷さんの気さくさは魅力なのですが、佐渡には通じなかったようです

 

また、岩倉具視と面会した際には、「あのような無礼者とは本当は一緒にいたくない。一方で、東北諸藩の動きにはひじょうに期待している」という声を懸けられました。

これは、幕府軍の戦力がまだ充分にある中で、もし薩長が劣勢になったら乗り換える保険もかけようという岩倉の狡さなのですが、佐渡は新政府も一枚岩ではないと考えました。

その上で、徳川憎しという私怨に懲りかたまっている新政府側に義がないと佐渡は考え、南部藩に帰りました。

 

奥羽越列藩同盟に加盟

藩に戻った佐渡は、奥羽越列藩同盟への加盟を主張します。

この佐渡に真っ向から反論したのが、政図でした。

 

政図は、勤皇派の中心であり、新政府側に付くべきと主張します。

佐渡「あのような武士ともいえぬような連中が、この国を統べることはできない」
政図「しかし、そんな連中でも時の勢いを得ている。勝つほうにつかねば南部は滅ぶ」
佐渡「では、武士としての誇りを捨て生きていけと申すか。謹慎し、抵抗しない徳川家を滅ぼすという連中に義があるのか。義に背き、利に生きる真似はできぬ」

佐渡は、最終的に勤皇派を弾圧し藩論をまとめ、南部藩は奥羽越列藩同盟に加入しました。

 

その奥羽越列藩同盟に激震が走ります。

秋田藩が同盟を離脱し、新政府側に寝返ったのです。

新政府側は、江戸を支配下に収め、奥羽に向けて進軍をしていました。

このままでは腹背に敵を受ける形になる列藩同盟側は、秋田藩討伐を決断。

佐渡も南部藩兵を率いて、秋田討伐に参加、大館城を落城させ、秋田に迫りましたが、秋田救援に訪れた佐賀藩兵に押し返され、膠着状態に陥ります。

最新鋭のアームストロング砲の前に南部藩兵も押されます

 

その内に列藩同盟側は、各藩が続々と新政府軍の投降し、ついに南部藩も降伏を決断。

佐渡も、盛岡城に引き上げ、佐渡の戊辰戦争は終わりました。

 

敗戦の責任を一身に背負う

新政府軍は戦後、列藩同盟側の各藩に責任者の処罰を命じます。

仙台藩の但木土佐、会津藩の萱野権兵衛らに切腹が命じられました。

そして、新政府は南部藩にも江戸で謹慎していた佐渡への「斬首」を命じました。

 

この命を受けたのは、佐渡の後に藩政を取り仕切った東政図でした。

政図は、この命を受ける一方で、新政府軍に次の願いを申し出ます。

「次の叛徒を産まぬ見せしめとして、南部領内での処刑を許してほしい」

この申し出を、新政府軍は許しました。

これは、佐渡に、最期に故郷の山河を見せてやりたいという政図のせめてもの思いやりだったのです。

 

1869(明治2)年6月23日、処刑場になった盛岡・報恩寺には、多くの民衆や武士が詰め掛けました。

皆、一目なりとも会って佐渡に別れを告げたいという思いだったのです。

 

佐渡は、用意された短刀で腹を切り、その後、『斬首』が執行されました。

佐渡は辞世の句で、

花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」

という歌を残しています。

 

佐渡が残したもの

しかし、佐渡が残したのは、辞世の句だけではありませんでした。

この時、報恩寺に詰め掛けた群衆の中に、14歳の少年がいました。

この少年の名は原敬

彼は後に、「薩長の用意した身分など要らぬ」と士族の身分を捨て、平民として政治活動に参加薩長閥を抑えてついには総理大臣となり、民衆からの支持を集めて「平民宰相」と言われた原敬でした。

 

原敬は総理大臣になった際、この報恩寺で、戊辰戦争殉難者50年祭を執り行っています。

その原敬の脳裏には、処刑場となった法恩寺に鷹揚と進んでいく佐渡の姿がありました。

「戊辰戦争には、官軍も賊軍もない。意見の異同があったのみ」という言葉を残しています。

写真は原敬 佐渡の生き様、死に様は原敬の生き方に、そして日本の憲政史にも大きな影響を与えました

 

また、佐渡の毅然として姿と合わせ、佐渡の武士道は南部の人たちが語り伝えします。

この話は、新渡戸稲造にも大きな影響を与えました。

彼が書き上げた「武士道」は、日本人の精神への理解を世界に広める役割を果します。

 

この書を読んだセオドア・ルーズベルトは日本人の精神に敬意を抱き、アメリカ大統領となった際、日露戦争の仲介役を務め、日本に有利な仲裁を行うことにつながりました。

佐渡が残した武士としての生き様は、後の日本と世界に大きな影響を与えていくのです。

(筆者・黒武者 因幡)