シリーズの第三弾は、中川清秀(なかがわきよひで)を取り上げます。
地味だな……という印象をお持ちの方もいるでしょうが、まずはおつきあいを。
中川清秀といえば、高山右近とセットの摂津の地味な小領主、というイメージをお持ちの方も多いと思います。
もっとはっきり言えば「知らない」という方もいるでしょう。
しかし、中川清秀には時代の転換点で存在感を示したとても魅力的な人物でした。
今日は、鬼瀬兵衛こと中川清秀を取り上げます。

摂津に中川清秀あり
中川清秀は、1542(天文11)年に摂津国福井村(大阪府茨木市)で生まれました。
中川家は、摂津の国衆である池田家に仕える小領主でした。
当時の摂津は、一国を統べる勢力がなく、小さな抗争が勃発していました。
その状況を大きく変えたのが、織田信長です。
1568(永禄11)年、信長は、足利義昭を奉じて上洛。
この件で、将軍の名の下に清秀をはじめ摂津の各勢力は、信長に協力をしていきました。
そして、清秀の名前を信長に印象づかせる本國寺事件が発生します。
信長が京都から岐阜に帰ると、1569(永禄12)年正月、京を追われた三好三人衆が義昭の宿泊する本國寺を襲撃しました。
この時、本國寺にはわずかの手勢がいるばかりでした。
この報を受けた摂津の国衆などが救援にかけつけ三好衆を撃破したのが本圀寺事件です。
この戦いで清秀は、三好勢との戦い、緒戦で一旦は兵を退いたものの撤退はせずに、踏みとどまりました。
そして、翌日、戦勝で緩んだ三好勢に奇襲をかけ、打ち破ります。
この戦いぶりは義昭から激賞され、信長にも摂津に中川清秀ありと認識されたのです。
鬼瀬兵衛
この後、信長は摂津を三分割し、池田勝正、和田惟政、伊丹親興に統治させました。
この体制に不満を抱いた国衆がいました。
その武将は荒木村重。
清秀は、この村重に同心して、信長に刃向かいます。
村重は、池田・伊丹を追い出し、和田惟政と雌雄を決します。
この時、村重は「惟政を討ち取ったものには500貫の地を与える」という札を掲げさせました。
清秀は、この札を引き抜き「俺が和田を討ち取るのでこれは俺がもらう」と周囲に宣言します。

この和田惟政は、義昭不遇の時から従った幕臣であり、天下に知られた猛将でした。
しかし、清秀は和田軍の旗本に切り込み、宣言通りに惟政を討ち取ります。
そして、誰言うとなく、清秀は鬼瀬兵衛と呼ばれることになりました。
この功で清秀は茨木城主となり、摂津でその地位を固めていくことになりました。
やがて、摂津一国を切り取った村重を信長は摂津国主と認め、反逆の罪を許し、服属させます。
村重は再び信長に臣従し、清秀も茨木城を安堵されて信長に再び迎えられました。
村重、謀反
しかし、1578(天正6)年、村重は再び、信長に謀反を起こしました。
摂津の本願寺攻めが思うように進まない中、荒木家中から本願寺側に兵糧を横流ししていた事実が発覚し、誅殺を恐れたためとも言われています。
清秀も村重に同心して離反しますが、内心ではこの謀反に賛成ではありませんでした。
その心の間隙を縫って、信長は清秀の許に古田織部を派遣し、切り崩しを図ります。

もともと気乗りしていなかった清秀は、高山右近とともに信長陣営につくことを決断。
清秀の帰参を信長は非常に喜びました。
そして、両翼である清秀、右近を失った村重は、篭城する有岡城を脱出し、謀反は失敗に終わりました。
秀吉の天下を決める働き
清秀が再び天下にその存在を知らしめる時がやってきます。
1582(天正10)年6月、本能寺の変が起きました。
この時、清秀は、秀吉と親しくしていた縁もあり、秀吉に味方し、明智光秀と対峙します。

そして迎えた山崎合戦では、天王山を奪取することが戦の帰趨を決すると両軍は考えました。
この天王山の奪取を秀吉は、清秀に命じます。
清秀は軍勢の一部を分け、天王山をいち早く奪い取ります。
一方の光秀側も猛将の松田政親を向かわせて、激しい攻防戦が展開されました。
さらに、光秀側の主力だった伊勢貞興、斎藤利光らが攻め寄せて、激戦になります。
清秀は高山右近らとともに伊勢、斎藤勢を迎え撃ち、一進一退の攻防を繰り広げます。
清秀は山崎の戦いの中でも最激戦場を受け持つことになったのです。
しかし、これこそが退かぬ鬼瀬兵衛の面目躍如。
部下の将兵を励まし、自ら槍を振るって戦う姿は味方の兵を鼓舞しました。
そして、耐えているうちに、堀秀政の救援が駆けつけ、さらに黒田官兵衛の軍勢も加わり、戦況が変わっていきます。
そうしているうちに、池田勢が光秀本陣に迫り、明智軍は撤退を開始。
清秀の奮闘が、秀吉に勝利をもたらしたのです。
この時、清秀の下に秀吉が駆けつけ「瀬兵衛、骨折り」と馬から下りずに一声かけます。
この姿に、清秀は「猿め、もう天下をとったつもりか」と毒づいたといわれています。
しかし、やがて秀吉が天下を統べることになるだろうと清秀も分かっていたのでしょう。
この後も、清秀は秀吉を支持して、協力をしていきます。
しかし、清秀は秀吉が天下人になる姿を見届けることはできませんでした。
賎ヶ岳に散る
山崎の合戦以後、織田家の中で秀吉と柴田勝家が対立し、ついに争いが勃発します。
1583(天正11)年4月の賎ヶ岳の戦いです。
当初は対峙していた両軍勢でしたが、背後の岐阜で勝家と合力する織田信孝が岐阜城に迫るの報に接すると、秀吉は軍勢を率いて、岐阜に転じました。
この隙を抜って柴田側の猛将・佐久間盛政が2000の兵を率いて動きます。
盛政が攻めたのは、清秀が篭る大岩山砦でした。
この大岩山砦は最前線ではなかったため清秀の手勢はわずかに300に過ぎませんでした。
思わぬ襲撃を受けた清秀は盛政の猛攻の前に奮闘しますが、軍勢には大きな差がありました。
しかし、退かぬ猛将・鬼瀬兵衛は、この時も撤退しませんでした。
膠着した戦は動き出したときに、大きく勝敗が分かれるというのは清秀も分かっています。
今、耐えて盛政を退ければ戦局は有利に働くと考えたのでしょう。
しかし、佐久間盛政も名うての猛将で、果敢に砦に攻め寄せます。
高山右近から撤退し、合流するように伝令が来ますが、全軍の崩壊を恐れた清秀は味方が大勢を整えるために留まって戦い、ついに討死を遂げてしまいます。
しかし、この清秀の奮闘によって、他の砦が守りを固める時間を確保することができ、秀吉軍の崩壊を防いだのです。

勝家動くの報に秀吉も好機と考え、急遽引き返し、勝家勢を破り、天下を取りました。
この時の清秀の奮闘を秀吉は激賞しています。
秀吉に天下を取らせる働きをした鬼瀬兵衛・中川清秀。
その後、取り潰されるほどの失態を息子が犯した際も秀吉は「瀬兵衛の功績に免じて」許し、子孫は、やがて豊後(大分)岡藩7万4千石に封じられ、その血統を今に残しています。
(筆者・黒武者 因幡)