長岡半太郎は凄い物理学者だった!

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有名な日本人物理学者の筆頭と言えば、真っ先に浮かぶのは湯川秀樹であろう。

彼が日本人として初めて、ノーベル物理学賞を取ったということは、ほとんどの日本人が知っていると思われる。

しかし、それよりも前にノーベル賞級の理論を発表していた日本人物理学者がいたことはご存じだろうか。

その理論の基になっている説が、「土星型原子模型」説である。

その説がその人物の名前ではなく、後に理論を実験により証明したラザフォードという物理学者の名にちなんで「ラザフォード原子模型」と言われているのは不思議というほかない。

ちなみに湯川秀樹は彼の孫弟子にあたる。その人物とは…長岡半太郎である。

画像・長岡半太郎

 

秀才ではなかった少年期

岡半太郎は、大村藩(長崎県大村市)で生まれた。

父は大村藩士・長岡治三郎であった。

 

一家は1874年(明治7年)に東京に移住し、半太郎は本郷区湯島小学校に入学することになる。

さぞかし優秀な成績だったのだろうなと思いきや、何と半太郎は成績が悪く、落第したこともあったという。

半太郎は思ったことは言いたい放題言ってしまう性格であったようで、もしかするとそのことで、教師から不興を買っていたのかもしれない。

 

その後、東京英語学校に進学するが、父治三郎の転勤もあり、大阪英語学校に転校した時期もあるという。

そして再び、東京英語学校が改編された東京大学予備門に再入学することとなる。

ちなみに、大阪英語学校は旧制三高の全身であり、東京大学予備門は旧制一高の前身である。

 

物理学に目覚める

小学校時代には落第も経験した半太郎であるが、大阪英学校と東京大学予備門の学風が合っていたのか、その後はめきめきと頭角を現すようになったという。

半太郎は1882年(明治15年)に東京大学理学部に進学することとなる。

 

ところが、なんと半太郎は東大を早々に休学してしまうのである。

その理由は勉強についていけないとか、病気とかのありふれたものではなかった。

半太郎は休学の理由について、晩年次のように述べている。

「(物理学に傾倒し始めた私は)欧米での研究成果について、理解はできたけれども、欧米人研究者の成果をただ伝えるだけで満足するのでは志が低すぎると思ったのである。研究者として、創造的な仕事をしていかねば男子として生まれた甲斐がない。

しかし、我々東洋人は果たして欧米人と伍して、科学の研究活動ができるものなのかどうかが判然としなければ、一生を棒に振ることになりはしないか。そこで、1年かけて中国における科学について調べてみることにしたのである。」

何と半太郎は、東洋人である自分が独創的な物理研究を行い得るのか?という点を1年かけて検証しようとしたのだ。

さて、1年の調査の結果、中国で渾天儀(天文観測機)や大砲、火薬などが独自に開発されていることを知った半太郎は、東大物理学科に進むことを決意する。

その後、教授である山川健次郎や、助教授の田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)、イギリス人教師ノットのもとで、本格的に物理学を学ぶこととなる。

 

土星型原子モデルを提唱

の後、東大物理学科での課程は順調に進み、1887年(明治20年)に大学院に進学、そして1890年(明治23年)には助教授に就任する。

物理学者「長岡半太郎」の誕生である。

 

1904年(明治37年)、東大教授となっていた半太郎は、原子の中央部に正電荷を帯びた原子核があり、その周りを、負電荷をもつ電子が円運動しているといういわゆる、「土星型原子モデル」を提唱する。

この原子モデルは1911年にラザフォードのα線散乱実験によって、基本的には正しいことが実証された。

 

ノーベル賞と日本人

星型原子モデルの話には続きがある。

先ほど「基本的には正しい」と断ったのであるが、実はこの原子モデルには1点だけ問題があった。

電子はエネルギーを与えられて加速度運動をする際に、電磁波を出すことが既に知られていた。

この点を考慮すると、原子核の周りを等速円運動する電子は電磁波を出しながら減速していくことになり、正電荷を持つ原子核に吸い寄せられてしまうということになる。

この矛盾点を「量子条件」という概念によって解消したのが、ニールス・ボーアであり、その業績から1922年にノーベル物理学賞を受賞している。

 

しかしながら、ボーア原子モデルの原型となる理論を提唱した半太郎が、ノーベル賞候補に挙がることすらなかったというのは不思議である。

この一件を、「業績が問題なのではなく肌の色が問題だったのだ。」という識者もいるくらいである。

この当時はまだ東洋人に対する差別が存在していたようなのだ。

 

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カミナリおやじ

半でも書いたが、半太郎は「思ったことは言いたい放題言ってしまう」性格であったという。

そんな激しい一面を持ち合わせた半太郎のあだ名は「カミナリおやじ」。

弟子の研究についても、「良い」「悪い」をはっきり指摘したと言い、正直ブルッていた弟子も多かったという。

 

まとめ

長岡半太郎の生涯を調べると、まさに「物理学に一生を捧げた真摯な人」というに相応しい。

東大を1年休学し、本当に自分に世界で渡り合える研究ができるのか、検証までするというのは常人には中々できるものではない。

「カミナリおやじ」は必死に物理学に取り組むあまり、妥協が許せなくなった心境を反映したものなのかもしれない。

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