「倫魁不羈」という言葉があります。
あまりに凄くて、誰も縛り付けることができないという意味です。
ミュージシャンならばロックということになるでしょうか。
そんなロックな人生を送った人物の名は、水野勝成(みずのかつなり)。
通称・鬼日向。家康の従弟です。
今回の鬼と呼ばれた男たちシリーズは、水野勝成のロックな人生を紹介します。

お前の指図は受けねえよ
水野勝成は、1564(永禄7)年に生まれます。
初陣は1579(天正7)年の高天神城攻めでしたが、この時には戦はなく終わります。
1580年に第二次高天神城攻めで16歳にして首級を上げ、信長から感状をもらいます。
これが、勝成の波乱の戦人生の幕開けでした。
勝成がその存在感を発揮するのは、1582(天正10)年、信長遺領をめぐって起きた天正壬午の乱でした。
北条軍と戦った徳川軍の中に、鳥居元忠の寄騎として参加していた勝成がいました。
しかし、この時、元忠が自分の配下の手勢だけで功を求めて抜け駆けをします。
これを見た勝成は、馬を疾駆させ元忠に追いつきました。
そして、「戦陣では抜け駆けは許されない。それを大将なのにする貴殿の指揮には従えない」(意訳:せこいんだよ、この爺。こうなったら手前の指図は受けねえよ)として、先頭を切って敵陣に突撃し、首級をあげます。
抜け駆けを図った元忠も真っ青の抜け駆けの功で、家中での勝成の存在感は増します。
しかし、猛将にとってはプラスに働くこの気性の荒さが、勝成の人生に大きく影響を与えていくのです。
父と対立
1584(天正12)年、家康と羽柴秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで、勝成は父の忠重とともの従軍します。
この時、勝成は眼病で兜を被ると痛みが激しく、鉢金で参戦します。
その恰好を忠重から咎められると「兜がないことで頭が割られても、それは時の運。一番首を取るか、自分が取られるか見ていろ」(意訳:がたがたぬかすな、親父。黙って見てろ)と啖呵を切って、敵陣に突入し、見事一番首を上げます。
この功は家康に賞されますが、忠重との確執が残ってしまいました。
その後、勝成は自分の不行跡を忠重に告げ口した家臣を怒って殺してしまいます。
これに激怒した忠重は、勝成を勘当し、各家に奉公構いを伝えます。
これは、勝成を雇ってはならない。やとったらそれは水野家との遺恨になる、というものです。
やくざの世界でいう「破門状」です。これで、勝成に徳川家での居場所はなくなり、勝成は水野家を出奔しました。
流転の猛将
その後、勝成は秀吉に仕えるも再び出奔。
佐々成政に仕えて、肥後の国人一揆で活躍します。
しかし、成政が秀吉から切腹を命じられて、再び浪人。
その後、黒田官兵衛に仕えるも、出奔。
小西行長、加藤清正、立花宗茂と名だたる武将の許に仕えます。
その禄は1000石程度で、かなり優遇されています。
しかし、どこかなじめなかったのか、長続きしませんでした。

最終的に落ち着いたのが、備中の国人・三村家親のところでした。
禄はわずか20石にも満たないもので、食客としての待遇でしたが、ここでお登玖という女性と知り合い、妻に迎えます。
そして、この三村家での滞在は5年間にも及びます。
この間に、との間に男子が生まれます。
「銭金が大事なんじゃねえ、大事なのはやっぱ大事なのは愛だろ、愛」というところだったのでしょうか。
そして、この三村家での生活で親となったことで、勝成は父親の気持ちもわかっていったのです。
父との和解、しかし
勝成の消息を知った家康は、1599(慶長4)年、勝成を呼び寄せ、父の忠重と和解をさせます。
ところが、その親子の和解からわずか数か月後、忠重は暗殺されてしまいます。
当時、東西両軍に分かれて戦う気配が濃厚な折、石田三成派が忠重を篭絡しようとした誘いを断ったため、暗殺をしたものでした。――まだ、親不孝のお返しをしていないのに――
勝成は、悲しみの涙も引かぬうちに、忠重の遺領・刈谷3万石を相続し、父の仇である西軍との決戦関ヶ原に臨むのです。
勝成は、本戦とは離れた美濃大垣城攻めを任されていました。
この時、勝成はかつての一番槍を競う猛将ではなく、敵将を篭絡し、中から城を開けさせる調略を実施し、損害を少なくして、堅城を奪取するらしくない功績を残しています。
鬼日向誕生
関ヶ原戦後、功績を認められた勝成は、官位を賜ることになりました。
そこで、勝成は、日向守任官を求めます。
日向守は、明智光秀の官位であったため、光秀以後、求める人がなかったのですが、勝成はあえてその日向守を求めました。
「下らねえ。光秀以上の存在になれば、いいんだろ」という勝成のロック魂が感じられます。
このことで、勝成はその勇猛さを合わせて、「鬼日向」と呼ばれることになります。
大坂の陣 やっぱり鬼日向
家康最後の戦となる大坂の陣では、勝成も出陣しました。
この時、勝成50歳を超えています。
家康からも「将として臨むので、かつてのように先駆けるような戦いぶりはしてはならない」と釘を刺されています。
勝成も、「関ヶ原の時をお忘れですか。心得ております」と応えたことでしょう。
しかし、人間簡単に性格は変わらないものです。
自重していたものの、そこはやはり勝成でした。
しかも、対するはかつて黒田家で武功を競い合った後藤又兵衛でした。
この状況が、かつての勝成のロックな魂を揺さぶりました。
「人は年を取ったから老いるんじゃねえ。若い時の心を忘れたときに老いるんだ」
そして、大坂夏の陣でもクライマックスになる道明寺・誉田の戦いに勝成は臨みました。

この戦いで、勝成は家康からの言葉を忘れた奮闘ぶりで、禁じられていた一番槍を上げ、後藤又兵衛の部隊を奮戦の末、打ち破っています。
その戦いぶりは、あのやんちゃ者の伊達政宗が自重を促すほどでした。
さらには、翌日の天王寺の戦いでは、真田幸村隊の突撃の勢いを止めることに成功。
幸村乾坤の一撃を防ぐ働きをしています。
しかし、こうした勝成の戦ぶりは評価されず、加増はわずかなものに留まりました。
しかし、勝成を評価する2代将軍の秀忠は、勝成を最終的に備後福山10万石に封じるのです。
名君勝成
福山封じられた勝成ですが、実は名君としての様々な業績を残しています。
まず、かつて世話になった三村家親を家老として迎え入れました。
そして、福山城下で上水道を整備しました。
さらに、藺草の栽培を奨励し、今に伝わる高級な畳表である備後表の礎を築くなど、他藩にない方法で福山発展に貢献しました。

日本の最近のロックシンガーは、見かけがパンクなグループやシンガーは少なく、外見は普通のミュージシャンと変わりません。
しかし、その音楽の根底には、反骨の精神が宿っています。
勝成もかつてはバリバリのロックな武将でしたが、名君として領民から慕われました。
しかし、その根底にある精神は変わっていないのではないでしょうか。
(筆者・黒武者 因幡)