三島通庸の生涯に迫る!三島弥彦の父は鬼県令で東北で大いに恐れられた!

〜三島弥彦の父は鬼県令?東北で大いに恐れられた三島通庸の生涯に迫る〜

現在放送中の大河ドラマ「いだてん」生田斗真が演じるスポーツ好きの快男児。

それが三島弥彦です。

 

彼は当時不良の多かったスポーツ界でも落ち着いた性格をしていたことで評判の人物であり、オリンピック出場の功績を決して誇らなかったと伝わっています。

その弥彦の父は、幕末の志士として活躍したのちに政治家を務めた三島通庸(みしま みちつね)です。

彼も弥彦のようにおっとりしている…ということはなく、「鬼県令」として東北各地を震え上がらせました。

ここでは、何かと悪評がつきまとう通庸の生涯を紹介していきます。

画像・三島通庸

幕末に薩摩藩士として活躍

天保6年(1835年)、薩摩藩士で楽器の鼓を指南する三島家に通庸は誕生しました。

世が世であれば家系通り楽器を教える武士としての生き方もあったのかもしれませんが、幸か不幸か彼の生まれた時代は幕末に相当しました。

そのため、幼少期から剣術や兵学を学んでいた通庸は、藩内に存在した西郷隆盛大久保利通など後に明治維新の立役者となる人物たちによる集団「精忠組」の一員として尊王活動へと乗り出します。

 

ところが、その精忠組自体が内部分裂を引き起こし、薩摩藩を指導する立場にあった島津久光が尊王過激派志士の粛清を試みた寺田屋事件に関与してしまいした。

尊王派の立場にあった通庸は謹慎を命じられますが、西郷や大久保ら尊王派が藩内で復権を果たしたことにより、通庸もまた表舞台へと引き戻されます。

 

その後は薩摩藩士として討幕活動に従事し、戊辰戦争などでも兵糧部隊の指揮を担当。

討幕を成し遂げてからはこうした活動が大久保利通の目に留まり、新政府にも関わっていくことになります。

 

山形・福島では県令として「鬼」の振舞いをみせる

こうして新政府に参与するようになった通庸は、明治7年(1874年)に鶴岡県(現在の山形県の一部)の県令に就任します。

そこでは当時新政府が金銭による納税を許可していたにもかかわらず、旧庄内藩から引き続き政治にかかわっ面々が米での納税を強要したことに反発した「ワッパ騒動」という集団抗議が発生していました。

これは米の値段が高騰していたことにより、旧庄内藩士たちが米で得た税を換金して政府に納税する際、彼らはその利ザヤを不当に蓄えていたことが大きな理由です。

 

この騒動を受け、通庸は参与した官吏らを徹底的に更迭するとともに、騒動を引き起こした農民たちをも弾圧し騒動の鎮静化を図りました。

強引な手法ながら騒動を解決することに成功した通庸は、新たに酒田県や鶴岡県が合併し誕生した山形県の県令に就任します。

そこでは、山形に必要なものは「道路」と「公共事業」であると頑なに主張し、土木工事に力を注ぎました。

 

通庸はかなり大規模な工事に次々と着工すると、東北に大きく利便性の高い陸路を多数整備しました。

彼のやり口は少々強引なところもありましたが、この際に整備された陸路は奥州全体や東京都のアクセスを飛躍的に向上させ、県に活気をもたらしました。

さらに、当時整備された道路は形を変えつつ現代でも主要な幹線道路として機能しています。

 

また、公共事業にも積極的な投資を行ったため、彼の在任時には多数の病院や学校などが誕生しています。

これらの建物は洋風の建築技法が採用されたため、県内には今でもその名残を見ることができます。

 

「有能な鬼」は功罪こもごもであった

通庸の強引な手法は、時として及び腰になりがちな政策を押し通す力がありました。

そのため、「鬼」と呼ばれながらも罪ばかりではありません。

それでも彼に悪評が付きまとうのは、福島県令および保安条例に関連した活動が大きな原因を占めています。

 

明治15年(1882年)、自由民権運動が盛んな福島県に県令として赴任します。

そこでは運動の徹底的な弾圧を行ない、特に自由党員は困窮に追い込まれていくことになりました。

また、山形の経験から「会津三方道路」という越後・会津・山形街道の整備を推進しましたが、この建設に際し地元住民に重い負担を強要。

弾圧と相まって彼への評価は地に落ちます。

 

さらに、住民に負担を強いてまで建設した会津三方道路はすでに時代遅れの産物となっており、期待した成果には程遠い有様に終わってしまいます。

こうした弾圧や失政に耐えかねた自由党員は、通庸の暗殺を目論んだ加波山事件を起こしました。

通庸は暗殺の危機こそ逃れましたが、自由民権運動の高まりに警戒心を抱きます。

そのため、明治18年(1885年)に就任していた警視総監という立場から、自由民権運動にかかわる危険人物を排除できる「保安条例」の制定に力を入れました。

 

この条例には首相伊藤博文や内務大臣山形有朋が消極的であったともいわれていますが、通庸の強い意向により勅令として公布されます。

結局通庸は公布直後の明治21年(1888年)に亡くなってしまい、保安条例もその10年後には民権運動の高まりを抑えきれずに廃止。

通庸の思いとは裏腹に民権派の勝利で自由民権運動は幕を閉じたのでした。

 

【参考文献】

幕内満雄『評伝三島通庸―明治新政府で辣腕をふるった内務官僚』暁印書館、2010年。
武部健一『道路の日本史:古代駅路から高速道路へ』中央公論新社、2015年。

(筆者・とーじん)

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