鎌倉時代

源頼朝とはどんな人物?したことや死因、エピソードを簡単に紹介

源頼朝(みなもとのよりとも)といえば、「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」ですよね。

鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、どんな人物だったのでしょうか。

今回、源頼朝の経歴死因や生い立ちその他エピソードを簡単にわかり易く紹介してきますよ。

源頼朝、プロフィール

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源頼朝(みなもとのよりとも)
出身地:京(京都市)
生誕:1147年
死没:1199年1月13日
享年:53歳(病死)
時代:平安時代-鎌倉時代
妻に北条政子

 

源頼朝って何した人?どんな人?

源頼朝は、平氏を弟の義経(よしつね)らに倒させて、武士による鎌倉幕府を開いた人物です。

のちに「征夷大将軍」に任命されています。よく「将軍さま!将軍さま!」といわれるアレですね。幕府のトップ・代表になったという事です。

ここでは、源頼朝の経歴を簡単に紹介してきます。

源頼朝のカンタンな経歴

頼朝は、父・源義朝(みなもとのよしとも)の3男として生まれました。

出生地は熱田(現在の名古屋市)だとされています。

頼朝は、父とともに平清盛と戦いました。

しかし敗北。

父は殺され、頼朝は伊豆(静岡県)に追放されます。

頼朝はずっと平氏側に見張られてすごしますが、「いつか平氏を倒す」という気持ちは消えることはありませんでした。

 

0年後、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)から、「平氏を倒せ」という命令が届きます。

頼朝は、妻の北条政子の父・北条時政らとともに、平氏側の武士を攻撃します。

すると、平氏に不満をもつ武士がぞくぞくと集まりました。

その数はなんと数万。弟の源義経(よしつね)も平氏がキライでしたから、かけつけました。

頼朝は、平氏との戦いを義経に任せ、頼朝自身は、鎌倉(神奈川県)で、武士が中心となって政治をおこなえるしくみをつくりはじめました。

これがのちに鎌倉幕府になります。

 

1185年、ついに弟の義経は、「壇の浦の戦い」でついに平氏をほろぼしました。

が、しかし、朝廷からほうびをもらったり、勝手な行動をしたため、頼朝を怒らせます。

頼朝と義経は対立。義経を鎌倉から追放しました。

これは、せっかく頼朝が「朝廷から離れる」ことをを狙って武士による政治を行おうとしていたのに、弟の義経が勝手に朝廷から褒美をもらって、しかもランクの高くない褒美をもらって喜んでいたためです。

これでは、武士より朝廷の方が偉いという構図が丸出しなのです。

義経を追放した原因は、一言で言うと「頼朝の政治のビジョンを理解していなかったから」でしょう。

いくら弟といえど、これで処分しなければ、「武士政権」を夢みて一緒に戦っていた他の者に示しがつきません。

 

そして、日本ではじめて武士による政府「鎌倉幕府」を開いたのです。

1192年(いいくに)つくろう鎌倉幕府ですね。

 

弟の源義経については、こちらの記事で簡単にわかり易く紹介しています。

>>>源義経とはどんな人物?牛若丸の伝説やチンギス・ハーン説について




めっちゃイケメンだった?

頼朝はどうやらイケメンだったようです。

身長は低かったらしいのですが、顔が整って綺麗だったと言われています。

 

風流な男でもあり、「新古今和歌集」の中に歌が選ばれています。

王子様、プリンスの様な感じで、多くの女性を惹きつけていたそうですよ。

ちなみに、弟の義経も、イケメンだったと言われていますね。




生い立ちが壮絶?

頼朝の生い立ちについて。

頼朝の生い立ちは過酷でした。

 

は源義朝(みなもとのよしとも)。母は正室ですが、腹ちがいの兄弟がたくさんいます。

頼朝は3男ですが、兄2人は討ち死に、父は味方の裏切りで死にます。

頼朝も、平清盛に殺されそうになりますが、平清盛の母の助命嘆願で命は助かり、伊豆に追放されて済みます。

その20年後、平氏を滅ぼします。

 

絶な人生は、源頼朝を強くしました。とても頼もしくかっこいいのです。

敵である武将であっても、捕らえた後、乱暴をしたりはしません。

1度は敵になった人物を気に入って、そばに置いたりしていました。

 

女性に優しく、命を助けています。特にわかりやすいのが平氏の面々です。

頼朝は、べつに平家が憎かったわけではありません。

多少は恨んだでしょうが、平清盛ぐらいです。

頼朝が殺されそうになったとき、清盛の母が助命嘆願していて、その恩義を忘れなかったのでしょう。

 

あと、家族を大事にした人です。

妻・北条政子との子供たちを全力でかわいがっていました。

一方、身内でも罪を犯した場合は、容赦がありません。

弟の義経が、勝手に朝廷からほうびをもらった事に怒り、義経を追放しています。

鎌倉幕府のボスとして、人としても、器が大きく頼りになるいい男だったのですね。




死因は?

源頼朝の死因について。

頼朝は53歳で若すぎる死を遂げます。

死因については諸説あって、

  1. 落馬
  2. 暗殺
  3. 尿崩症
  4. 糖尿病

などを疑う声があります。

 

史料などに確かな記録はないのですが、溺死、落馬ではないかと言われています。

でも源氏は、武将の家です。

あっさり溺れるようでは、海での戦はできません。

落馬も、ただ落ちたとは考えられません。

 

優れた武士が、落馬か溺死した要因は次のようなものが考えられます。

1つは、「脳梗塞」。

脳の「脳幹」という重要な部分が、急に脳梗塞などで損傷することがあります。

ここを損傷すると感覚が無くなって、落馬、溺水が起きても不思議ではない状態になります。

 

もう1つは、「毒」。

何らかの薬を少しずつ食事に混ぜられて毒殺されかかっていたというもの。

主にアルコール依存症や、麻薬など脳を犯すもので多い症状です。

鎌倉は意外と毒性が高いキノコや植物が多くあります。

体がしびれたり、力が入らなかったりしたら落馬したとしてもおかしくはないでしょう。

 

まあ、確かな記録はないのですから、謎ではあります。

これらもあんまり信ぴょう性は高くないので、ウワサ程度でとどめておきましょう。(・∀・)

 

家系図は現代まで続いてる?

頼朝の子孫について。家系図、血はつづいているのでしょうか。

残念ですが頼朝の血は途絶えているようです。

直系は3代でほろびています。親戚たちも殺されてなくなっています。

 

頼朝は源氏ですね。

源氏の流れを汲む方はかなり多いです。武士の血をひく人は平氏か、源氏です。

良い血統にみせるため、勝手に名乗るケースもありますが。(・∀・)

 

頼朝の血は途絶えていますが、頼朝に流れていた血は、現代でも残っているということですね。

頼朝自身の直接の子孫はいないですが、頼朝の祖先の子孫ならいるということです。

 

まとめ

源頼朝とはどんな人物?したことや死因、エピソードを簡単に紹介でした。

 

源頼朝についてカンタンに語るポイントは、

  • 弟の義経と、平氏をほろぼした!
  • 鎌倉幕府を開いて、征夷大将軍になった!
  • イケメンだった!

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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