愛姫の生涯に迫る!離れながらも政宗への気配りを欠かさなかった妻

伊達政宗という人物の逸話からは、豪快なものから情けないものまで、非常にバラエティ豊かな彼のキャラクターが伝わってきます。

そんな面白い男の正室は、彼の良くも悪くも特徴的な人柄とはまるで対照的な「良妻賢母」としての姿が印象的な女性であったことをご存知でしょうか。

 

彼女の名は愛姫(めごひめ)といい、奔放な政宗を陰ながら支える女性でした。

肖像・陽徳院(愛姫)

 

政略結婚によって伊達家に嫁ぐも、政宗の短慮から不仲に…

愛姫は、永禄11年(1568年)に田村清顕という人物の娘として生まれました。

この田村家はかつて征夷大将軍を名乗った坂上田村麻呂の末裔を自称しており、その出自に誇りを持つ一族でした。

 

しかし、戦国時代に突入していくと名族意識だけでは身を立てられなくなり、清顕も娘の嫁ぎ先選びに苦慮することになります。

そして選ばれたのが伊達家であり、田村家は「力を伸ばしつつあった伊達家との関係強化」を、一方の伊達家側は「敵国である蘆名・相馬氏の攻略に向けて田村家を自陣営に引き込む」ことを目論んでいたので、両者にとってメリットのある関係性でした。

 

こうして天正7年(1579年)に二人は婚姻し、以後は生涯を通じて政宗の正室として彼を支え続けることになります。

ところが、結婚して間もなくの時期は二人の関係性が冷え込んでいたと言われています。

その理由は政宗が自身の暗殺騒動に対して、彼女の実家である田村家の加担を疑ったためでした。

政宗は愛姫こそ離縁しなかったものの、彼女に付き添ってきた乳母や侍女の内通を疑って次々と処刑したため、二人の仲が冷え込むことになってしまったのです。

 

仲を回復してからは遠方から政宗を支え続けた

結婚直後の騒動で一時不仲になってしまった政宗と愛姫。

しかし、この仲はほどなく元の鞘に収まったようで、政宗と愛姫に関してはその親密さをうかがわせるようなエピソードが多数残されています。

 

愛姫は政宗が結婚後すぐに豊臣秀吉への服従を表明したため、その証として大坂に人質として留め置かれることになりました。

その後に徳川の世が訪れても人質の慣習は変わらなかったため、二人が対面する時間は非常に短かったと考えられています。

 

そこで二人は、会えない時間に数多くの手紙を交わすことでお互いの存在を確かめていました。

もともと政宗は非常に手紙を書くことが好きな人物で、当時の武将にしては珍しいほど直筆の書状が残されています。

一方の愛姫も女性ながら古典に精通した教養人であり、政宗に負けず劣らぬ優れた文章を残しています。

 

手紙の内容は多岐に渡り、古典を引用してお互いの近況を知らせあったり、愛姫側から京都における中央政権の情勢を政宗に知らせたりしていました。

当時人質として留められた女性たちには本国に中央の情勢を知らせる役割が期待されており、愛姫は忠実にその役を全うしていました。

 

他にも、江戸時代に入ってから政宗が江戸にいる娘を仙台に引き取る際「お前も娘を手放すのは心細いだろうが、数年に一度会えるように取り計らうから今はこちらに寄こしてほしい」と、愛姫に対する気配りも忘れませんでした。

彼女もこの言葉に従い、黙って娘を仙台へと送り出したと言われています。

 

もちろん彼女はただ手紙を送っていただけでなく、大名の妻として江戸で催されるイベントの「衣装役」を担当していました。

これは今でいうところの「クリスマスパーティー」のように、節句のタイミングで江戸において実施された催し物で、その準備を担当するのは江戸にいる妻たちでした。

彼女は大きなミスなくしっかりと衣装監督の仕事を全うしたと考えられており、時には自身で縫物をするほど器用な人物であったと伝わります。

このように、残されているエピソードからは彼女の器量の高さがうかがいしれますね。

 

夫の死には立ち会えなかったが、同じ命日に亡くなる

江戸と仙台という離れた距離で交流を重ねていた二人ですが、寛永13年(1636年)に政宗が体調を崩してしまいます。

当時政宗はたまたま参勤交代中であり、江戸に到着する頃にはすでに歩くことすらままならないという状態にありました。

 

これを聞きつけた愛姫は彼の見舞いを申し出ますが、政宗はこれを頑として聞き入れませんでした。

その理由は弱っている姿を見せたくないという男のプライドによるものと考えられていましたが、当然それでも一目会いたい愛姫はたいそう落胆したと伝わっています。

 

結局政宗の体調は回復することなく亡くなってしまい、以後の愛姫は仏門に入り陽徳院と称しました。

彼女は政宗の死後もかなり長生きしましたが、承応2年(1653年)には体調を悪化させました。

もともと前年冬から体調を崩していた彼女は、政宗が亡くなったのと同じ2月24日に後を追うことを願うと、その想いを叶えるように同日中に亡くなったと伝わっています。

距離的な問題や死に際のやり取りから「不仲・疎遠説」を唱えられることも多い両者ですが、その実は非常に深い信頼関係で結ばれていたと考えるべきでしょう。

 

【参考文献】
佐藤憲一『素顔の伊達政宗:「筆まめ」戦国大名の生き様』洋泉社、2012年。
宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、Kadokawa、1997年。

(筆者・とーじん)