松平乗謨とはどんな人物?信濃の五稜郭・龍岡城の築城を命じた!

〜信濃の五稜郭〜

五稜郭に行ったことがある人は多いと思います。

戊辰戦争最後の戦場となった地であり、函館の有名な観光スポットです。

日本の城にはない西洋式な城郭で、五芒星型のお城としてひじょうに印象に残ります。

 

こうした幾何学的な城郭にしたのは戦略的理由があります。

それは、突き出した全ての星型の先端(稜堡といいます)に銃器や大砲を備えることで、あらゆる方向の十字砲火を浴びせることを狙っています。

函館の五稜郭

 

また、大砲の砲撃に備えるため、石垣を高くする代わりに土塁を厚くすることで、城内への距離をとり、砲撃を無力化することを狙っているのです。

五稜郭は形が鮮やかなだけでなく、戦略的にも難攻不落の城塞ともいうべき城だったのです。

 

この五稜郭ですが、日本にもう1つあることをご存知でしょうか。

そのもう1つの五稜郭は、信州にあります。

今回は、知られざるもう1つの五稜郭、信州・龍岡城の築城を命じた松平乗謨(まつだいらのりかた)をご紹介します。

 

ラスト・ミンスター(老中) 松平乗謨

松平乗謨は、もとは三河国奥殿藩3万石の藩主です。

幼少のころから聡明で西洋事情に興味をもち、知識を積極的に得ようとした開明派の人物でした。

1853(嘉永6)年のペリー来航に刺激され、軍備の増強の必要性を悟ります。

そして、伊豆代官ながら幕政に関わっていた江川英龍の影響も受け、農民兵の徴募を行っています。

乗謨の目にも、刀を武士のお家芸だとして鉄砲を軽んじる武士よりも先入観なく近代兵器を手にする農民兵の方が、より近代戦争で役に立つと考えていました。

肖像:最後の老中 松平乗謨(明治以後は大給恒を名乗る)

そうした先見性を買われた乗謨は、若年寄に任命され幕閣に入り、最終的には老中・陸軍総裁まで務めることとなり、図らずも激動の幕末の当事者となっていきました。

 

こうした一連の中で、乗謨は、三河国奥殿よりも飛び地であった藩領・信濃田野口を拠点とすべきと考え、本拠を信州龍岡の地に築城を命じました。

この時、縄張りで採用したのが、五稜郭・星型要塞でした。

来るべき近代戦争において、藩領を守るためには旧来の城郭ではなく、銃器の性能を発揮できる星型要塞の建設が急務と考えたのです。

 

完成 信濃の五稜郭

乗謨の悲願であった龍岡城は、1867(慶応3)年に完成しました。

龍岡藩は、乗謨の指揮の許、幕府軍に倣って、フランス式の兵制を採用していました。

農民兵を中心として近代化した軍隊を整備する一方、生糸の増産など殖産興業にも努めます。

国力を挙げて、来たる新政府軍との戦いに備えていました。

新政府軍との戦いは、近代化した軍隊同士の激戦になると想定し、本拠地の防備を固めたのです。

 

徳川慶喜の恭順 乗謨の幕閣辞任

1868(慶応4)年1月、ついに幕府軍と新政府軍が京都の鳥羽伏見で激突し、戊辰戦争が始まりました。

この戦いで幕府軍は負けますが、まだ江戸にいた幕府陸海軍は無傷でした。

しかし、徳川慶喜大坂城から江戸に逃げ、新政府軍に恭順の姿勢を示しました。

この慶喜の姿勢に、乗謨もまた時代の移り変わりを察し、老中と陸軍総裁を辞任し、龍岡に引き上げました。

 

乗謨は、松平姓を捨て、大給と改姓し、新政府軍の恭順しました。

しかし、幕府中枢にいた乗謨に対する新政府軍の警戒感は強く、乗謨は謹慎を命じられました。

また、龍岡藩兵は、北越戦争への出兵を命じられました。

こうして、幸か不幸か龍岡城がその実力を発揮することはなく、明治維新を迎えました。

 

その後の乗謨の活躍~日本赤十字社設立~

1877(明治10)年、乗謨らは、西南戦争の悲惨な状況が拡大することを見かねて、博愛社(のちの日本赤十字社)を設立します。

敵味方の区別なく負傷者を救護するという精神は、当時は先進的なものでした。

有栖川宮熾仁親王から設立許可を受ける博愛社(日本赤十字社の前身)

 

これもまた、西洋事情に詳しい乗謨ならではの活動でした。

佐野常民が、日本赤十字の父と呼ばれるのに対して、赤十字の精神の浸透に努めた乗謨は日本赤十字の母と呼ばれています。

 

現在の龍岡城

乗謨の先見性ゆえに立てられ、乗謨の先見性ゆえに戦いを避けられ、その真価を発揮できなかった龍岡城

その龍岡城は、今、佐久市立田口小学校の敷地になっています。

現在の龍岡城の写真 きれいな星形の堀が残っています。

 

農民兵を聴取し、近代化を進めた龍岡藩の象徴・信州の五稜郭龍岡城は、今、地域の子供たちの教育の拠点になっています。

こうした平和的に利用されている現在の状況を、乗謨もきっと喜んでいるのではないでしょうか。

(筆者・黒武者 因幡)