町野主水~戊辰戦争を生き抜き大正まで生きた会津のラストサムライ~

会津藩士として北越戦争に参戦し、小出島(現在の魚沼市)の最初で最後の奉行を務めたのが町野主水(まちのもんど)であった。

通称は源之助ですが、戊辰戦争終戦後に主水と改名し、その後の功績も大きいことから、表記は主水で統一します。

 

そして今回は、会津のラストサムライと呼ばれた町野主水の戊辰戦争での奮闘ぶりと、その後の活躍を追っていきます。

会津藩士の町野主水です。その姿は「槍の達人」と称されただけあり、ただならぬ強さを感じます。

 

祖先は蒲生家の家臣として活躍

町野主水の祖先は蒲生賢秀に仕えていた町野秀長とされ、その嫡男である秀俊の系統を組んでいます。

蒲生氏郷の会津転封に伴い同行したが、蒲生家が三代で断絶した後、街の家は会津に留まり帰農していたとされています。

会津藩初代藩主保科正之が、町野家の家格が高いことを鑑み、町野重成を召し抱えました。

以降会津松平家の家臣として会津藩にとって欠かすことのできない存在となっていくのです。

 

主水は天保10(1839)年に、会津藩士町野伊佐衛門閑英の息子として生まれました。

主水には弟の久吉がいて、兄弟揃って槍の達人と称されており、吊るしていたものに槍を通してもビクとも動かなかったと言われています。

会津藩初代藩主保科正之。

 

謹慎生活を経て戊辰戦争に参戦するも・・・

元治元(1864)年、主水は藩主松平容保がいる京都守護職の本陣へ向かう道中、桑名藩士を斬り殺したため、本陣到着後入牢となったのです。

同年7月に禁門の変が勃発すると、牢を破り手柄を立てるべく奮戦するも、一番槍を獲得するどころか脱獄が発覚し、越後国蒲原郡津川(現在の新潟県阿賀町津川)に謹慎処分となりました。

 

慶応4(1868)年に戊辰戦争が始まると主水は御蔵入奉行兼幌役の命を賜り、4月に会津藩飛領であった小出島に赴任しました。

閏4月26日、新潟県と群馬県の境目の峠であった三国峠を舞台に戦が繰り広げられていました。

弟の久吉は主水に対し、三国峠でともに戦いたいと切願しましたが、主水はこれを一蹴し待機するよう命じたのです。

しかし目を盗んで、久吉は単独で三国峠へ向かいました。

 

濃霧の中から忽然と現れた一人の若武者に周章狼狽とした新政府軍は、戦闘態勢に整えるのが遅く、槍の達人と称されていた久吉の槍さばきにより、次々と斃れていきます。

そして久吉も、総隊長のところまであと一歩と迫りましたが、態勢を立て直した新政府軍による一斉射撃を受け斃れました。

翌27日になると、小出島の戦いが始まり、薩長を主軸とした新政府軍と会津藩を主軸とした旧幕府軍が対峙しました。

 

この際の主水と、地元小出島の人々との間にはあるエピソードがあります。

新政府軍が小出島に迫ってくると、平たんな小出島では十分な防御はできないと考えた主水は小千谷まで進み守りを固める算段を立てていました。

しかし、小出島の人々は主水に小出島に待機してもらえないかと直談判します。

主水は面倒見がよく情が深い人物だったとされ、主水も不利と分かりながらも留まることを決め、新政府軍に対抗しました。

やがて新政府軍に小出島を占拠され、主水は会津まで撤退します。

主水は会津戦争を戦い抜くも弟久吉の戦死、母や姉などが自害するなど家族を失うこととなりました。

 

戦後は戊辰戦争で散った仲間の遺体処理に奔走

慶応4(1868)年9月22日、会津藩主松平容保が新政府軍に降伏し「会津戦争」は終戦を迎えます。

開城後、主水は同じく会津藩士の伴百悦らとともに戊辰戦争での戦死者の埋葬に着手します。

当時、賊軍と扱われていた旧幕府軍の遺体を弔うことを新政府軍は禁止し、見つかった場合は処断されたケースもありました。

それでも戦後の復興とともに会津のために戦い死んだ仲間たちへの思いがあった主水は、自身の命と刺し違えてでも軍監を殺すつもりで交渉に出向き、翌明治2(1869)年の春になると新政府軍から遺体の埋葬処理を認められることとなりました。

 

遺体は主に阿弥陀寺などに埋葬されますが、家族や親戚などは遺体に触れることすら許されなかったといいます。

非人らは遺体をゴミ同然のように投げ捨てたりする中で、伴百悦の陣頭指揮により徐々に遺体が埋骨されるようになったのです。

その後は会津藩士の多くは斗南藩へ移住する中、主水は移住することなく会津に滞在し復興に汗水を流したのです。

 

先人の思いを胸に会を設立

主水は、佐川官兵衛ら旧会津藩士とともに警視庁に仕官し、佐賀県土木課御用掛を経て、旧会津藩士らの仲間と「会津帝政党」を立党し、地元福島でも活躍しました。

明治16(1883)年に2人目の妻に先立たれました。

その妻との間に生まれたのが、後に張作霖顧問や衆議院議員を努めた町野武馬です。

 

大正2(1913)年、主水は先人の思いを受け継ぎ、戊辰戦争殉難者の霊魂を祀るため、法人設立に向けて奔走します。

同年に設立への届け出を提出し4年後の大正6(1917)年に旧内務省から財団法人として許可を受け、「会津弔霊義会」を発足し、初代会長に就任しました。

晩年の町野主水です。若かりし頃と変わらず眼力の強さがあります。

 

大正12(1923)年、主水は85歳で亡くなりました。

生前主水は息子の武馬に対し、「自分の死後は、会津城下に放置されていた旧会津藩の人々と同じように葬ってほしい。立派な埋葬では、会津戦争で散った仲間たちに申し訳が立たない」と遺言で残しており、武馬も父主水の遺言を忠実に守ろうとしました。

 

菰で包んで馬で曳かせたり、抜身の槍や刀を携えた行列を、警察は認めようともしませんでした。

しかし武人の息子である武馬も武士の心得を大事にし、頑なとして警察の要求を受け入れませんでした。

 

最終的には遺体を棺桶に納めることで、警察が目をつぶることになりました。

そんな中でも武馬は、戒名に関しては父の遺言を守らず、菩提寺の住職が命名した戒名を使うことにしたのです。

福島県会津若松市の融通寺にある町野主水の墓。

 

戊辰戦争を生き抜き、戦争で散っていった藩士たちを埋葬すべく奮闘した町野主水

中には遺体が野晒しにされ、身元の判別すら難しいものもあり、それらを見続けてきた主水は、無念や悔しさ、怨念は計り知れなかったかもしれません。

それでも主水の意中を知る人達は、彼の功績を讃え、今日まで語り継いでいるのです。

(筆者・風来坊 Ka-z)