京極高次 意地の戦~大津城籠城戦~

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京極高次 意地の戦~大津城籠城戦~

京極高次(きょうごくたかつぐ)とはどんな男だったのでしょうか。名家に生まれた男の生涯を時代背景にならってみていきます。

 

浅井家滅亡後、信長に仕える

利幕府の統治機構に侍所(さむらいどころ)というものがあります。この侍所とは、室町幕府における軍事部門にあたるもので、この侍所の長官になれば、足利幕府の軍事権を握ることなります。

そのため、侍所長官には足利将軍の腹心ともいえる家臣が就きました。その侍所長官を担う家柄は限られ、赤松・一色・京極・山名4家でした。

これら4家を、四職(ししき/ししょく)と呼び、足利幕府の中の名門として、尊ばれました。

中でも京極家は、足利尊氏を支えた佐々木道誉にはじまり、京都に最も近い近江国の守護大名として足利幕府で重きをなしていました。

京極家の祖となる佐々木道誉 北朝と南朝を天秤にかけた曲者でもありました

しかし、戦国時代になると、近江の国では浅井長政が力をつけ、京極家は浅井家の庇護を受ける立場に甘んじることになっていました。

戦国時代の京極家当主・京極高次も、小谷城で生まれました。1563(永禄6)年のことです。

京極高次は、当時友好関係にあった織田家に人質に出され、浅井氏滅亡後はそのまま織田信長に仕え、高次は近江国奥島に5000石を領する立場になりました。

京極高次は、浅井家滅亡後、信長の許で地味に活躍していきました

本能寺の変 高次の決断

1582(天正10)年6月2日、織田信長明智光秀の謀反に遭い、非業の死を遂げました。本能寺の変です。この時、明智光秀は近江国坂本城を中心にして、近江に大きな影響力をもっていました。

京極高次は、この時、周辺勢力の関係で、光秀に与する決断をします。そして、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・長浜城を攻めました。

しかし、光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との戦い(山崎の戦い)に敗れました。

京極高次は、謀反人に与したとして、秀吉の追討を受ける窮地に立たされました。この時、高次は逃げました。

 

妹のおかげで助かる

高次のこの窮地を救ったのは、妹の龍子でした。

龍子は、高次と同心して秀吉に敵対した武田元明に嫁いでいましたが、元明が秀吉によって、自害に追い込まれました。龍子は秀吉に捉えられ、そのまま秀吉の側室とされました。

美女との評判高かった妹・龍子に高次は救われました

この時、龍子が秀吉に高次の赦免を働きかけたことによって、高次は罪を許されました。そればかりか、最初は近江国高島郡2500石に始まり、1586(天正14)年には、倍の5000石、翌年には1万石を賜ります。

また、1587(天正15)年には、浅井3姉妹の次女・を妻に迎えました。さらに、高次は豊臣政権下では、近江大津城6万石を有する大名に出世したのです。

 

高次への蔭口

秀吉に逆らったのに順調に出世する高次でしたが、その出世を妬む者たちもいました。

そのため、高次は「蛍大名」と陰口されました。

蛍の意味は、妹と妻の尻のおかげで出世したという意味で、まあ、はっきりいって下ネタです。

妹を秀吉の側室に差しだし、妻は秀吉の側室の茶々(淀君)の妹であるため、武勇ではなく、女のおかげで出世したと言われたのです。

高次はさしずめ源氏蛍ということになるのでしょうか

この話は、高次の耳にも入ります。高次はどれほど屈辱を感じたことでしょう。でも、高次は表立っての反論はしませんでした。

 

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本能寺の変の失敗は繰り返さない

蛍大名と揶揄された高次ですが、歴史の転換点で大きな働きを見せ、天下にその名を知らしめる時がやってきました。それが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでした。

上杉討伐に向かう途中、徳川家康は大津城に立ち寄り、高次に自身が大坂不在の際のことを頼みました。また、高次も協力を約束し、弟と重臣を家康(東軍)に同行させました。

一方で、石田三成側(西軍)も近江の要衝である大津城を守る高次を味方につけるべく、説得を試みました。そこで、嫡子を大坂に送り、西軍への協力を約束します。

高次は、近江の周辺勢力が三成側に味方したことで、自分一人が家康側の旗幟を鮮明にしたらまずいと考え、三成側についたのです。しかし、家康側にも気脈を通じ、三成側の動向を家康に知らせ続けました。

 

一寸の虫にも五分の魂

慶長5(1600)年9月3日、高次は周囲を驚かせる行動に出ました。

突如、三成側の北陸遠征軍から離脱し、家康側の旗幟を鮮明にし、大津城に籠城したのです。

この時、近江には、家康軍との決戦想定地の美濃に向かう毛利元康(毛利輝元の叔父)や立花宗茂らの西軍3万7000(1万5000や4万との説もあります)がいましたが、三成側は、この軍勢を急遽、大津城に差し向けました。

大津城址の碑

9月7日、大津城攻防戦が始まります。

毛利元康や立花宗茂らは、圧倒的な兵力と物資の違いを見せつけ、大砲を大津城に向けて連日放つなど、高次軍を圧倒しようと考えました。しかし、高次側も意地を見せます。9月11日、夜襲を仕掛け、西軍に損害を与えました。

だが、こうした抵抗も大勢を覆すことはできず、13日には総攻撃を受け、高次自身も負傷しました。そして、9月15日、北政所の使者が仲介したことで、高次は大津城を明け渡し、高野山に退いたのです。

しかし、正しくこの日、関ヶ原で東西両軍が激突し、家康側が勝利したのです。高次は西軍の主力を足止めしたことで、東軍の勝利に大きく貢献したのでした。

肖像・立花宗茂 西軍の切り札である立花宗茂が関ヶ原に間に合っていたら歴史が変わったていたかも……

戦後、家康は京極高次の功績を高く評価し、高次に若狭一国8万5000石を与えました。

高次は、天下に武士としての意地を示し、陰口をたたく、自身を侮った人たちの鼻を明かしたのです。

 

(筆者・黒武者 因幡)

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