高坂昌信(春日虎綱)の生涯を解説!甲陽軍鑑の起草者とも知られる武田重臣

武田家の家臣団には著名な人物が何人も存在しますが、この高坂昌信(こうさかまさのぶ)もそうした人物の一人です。

彼は決して恵まれていない身分から武田信玄に見定められて出世し、ついには武田四天王の一角をなすまでになっていきました。

さらに、武田家の事績を後世に伝える甲陽軍鑑という史料の起草者とも言われており、彼の存在は後世にも大きな影響を与えました。

 

不遇の幼少期を送るものの、信玄の信任を受ける

高坂昌信は、大永7年(1527年)に甲斐国(現在の山梨県)を拠点としていた豪農の春日家という一族に生まれました。

父は春日大隅という人物で、出自の点から昌信の本名は「春日虎綱(かすがとらつな)」であると考えられることもあります。

 

豪農という立場は農民ながら非常に裕福なもので、昌信も言わば「ボンボン」のような息子であったのではないかと思われます。

しかし、父が亡くなると昌信の出生以前に養子となっていた彼の義兄が春日家において幅を利かせはじめ、それに昌信は反発。

義兄が春日家の財産を独占している旨を武田家に訴えましたが、裁判の末に彼の訴えは退けられてしまいました。

 

こうして春日家を勘当された昌信は後ろ盾を失い、一転して不遇の立場に置かれてしまいます。

しかし、一説ではこの裁判を目撃していた武田信玄が昌信の堂々たる振舞いに注目したとも言われ、実際に彼が16歳の頃には信玄によって将来の出世が見込まれるような立場の「近習衆」に抜擢されました。

 

こうして一躍大出世を約束された昌信でしたが、突然の取り立てによって周囲のひんしゅくを買ったと言われています。

彼は「お前など逃げ弾正だ」と挑発されるなど難しい立場に置かれましたが、信玄の顔を立てるためにムキになって反論することもなく、ひたすらに耐え忍んでいたと伝わります。

 

対上杉謙信という重要な役職を全う

我慢の日々が続いた昌信でしたが、天文21年(1552年)には侍大将に命じられると、翌年には小諸城の城代を務めました。

こうして名実ともに有力家臣としての地位を確立していった昌信は、やがて対立を深めていく越後の龍・上杉謙信との争いに深くかかわっていくことになります。

 

弘治2年(1556年)には対上杉氏の最前線である海津城の城代に任命され、以後の昌信は謙信に対する抑えとして君臨することになりました。

最大の敵と対峙する立場に昌信を置いたことからも、信玄による評価の高さが垣間見えるでしょう。

こうして謙信とにらみ合う昌信はその役職を全うし、武田氏が関与した戦にもほとんど出陣せず抑えとして上杉氏を絶えずけん制していました。

 

一方、彼が戦に顔を出した数は少ないものの、現代では伝説と化している第4次川中島合戦には参加。

この際は別動隊の指揮を担当しています。

 

こうして見ていくと、昌信の戦における戦いぶりは正直よくわかっていないというのが実情です。

この後は信玄の上洛に付き添って三方ヶ原に赴いていますが、その際も戦力的に大差がついていたため軍事的センスがあるかどうかは判断に困ります。

ただし、昌信は武田家臣団の中でもトップクラスの戦力を有していた可能性もあり、戦上手であったかもしれませんね。

 

崩壊していく武田家中でお家の存続に奔走

武田家の命運は、皆さんもご存知のように信玄の急死によって暗転し始めます。

彼の跡を継いだ武田勝頼の代になっても昌信は引き続き海津城を守りましたが、武田軍が長篠の戦いで大敗したことでその勢力を大きく落としてしまいました。

 

昌信はその大敗を受け、いくつかの策を講じています。

まず、撤退してきた勝頼に対して、昌信は敗戦を悟られないように軍勢の見苦しくなっていた装飾を新品に交換したそうです。

また、武田家の行く末を危惧した昌信は、家の事績や軍学を甥に口述して書き継がせていきました。

こうして完成したのが甲陽軍鑑という史料で、創作や事実の誤りなども多いものの、当時の武田家に関する歴史を知ることのできる数少ない史料として一定の価値を有しています。

 

その後、周辺勢力との融和をもって武田の家を存続させようと考えた昌信は、これまで覇権を争ってきた北条氏との同盟関係を強化し、さらに人生における大敵であった上杉氏との関係改善を試みています。

この上杉氏との交渉は、天正6年(1578年)に謙信が亡くなったことで勃発した御館の乱の影響で首尾よく進行していたようです。

しかし、昌信は上杉氏との交渉が執り行われているさなか、居城の海津城で病没してしまいました。

 

彼の死後に同盟こそ成立しますが、やがて武田家は徳川・織田・北条の三家から攻撃対象とされてしまい、同盟の甲斐なく滅びてしまいました。

武田家に尽くし続けてきた昌信がその最期を見届けなくて済んだのは、幸か不幸かなんとも言い難いところだと感じますね。

 

【参考文献】
丸島和洋『戦国代表武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。

(筆者・とーじん)