「古今亭志ん生」波乱万丈の生涯を送った落語界の神様

古今亭志ん生といえば、落語界の名跡として名高い一家です。

その中でも、特に5代目(本名:美濃部孝蔵)は戦後の落語界において中心人物と目され、古今亭志ん生家を著名なものにしました。

 

志ん生は、2019年に放送中の大河ドラマ「いだてん」でも主役級の扱いを受けており、ビートたけしが演じていることでも話題になっています。

そこでも多少描かれていますが、志ん生もまたビートたけしと同様、神様の側面と破天荒な側面を合わせ持つ人物です。

そこで、この記事では志ん生の生涯に注目し、波乱万丈の人生を紹介していきます。

5代目古今亭志ん生 (本名:美濃部孝蔵)

 

落語の道を志すまでは荒れた生活を送り実家から勘当されている

後に落語界の神様として知られるようになる志の輔は、明治23年(1890年)元徳川直参の名家であった美濃部家の五男として誕生しました。

実家は高名な家柄であった一方で暮らしぶりはその家柄に見合ったほどではなく、父も警視庁の巡査として生計を立てていました。

それでも極貧かといえばそれほど暮らしに困っていたわけでもなく、志ん生も父に連れられる形でしばしば寄席を鑑賞していました。

しかし、この時期にはまだ落語家を志していたわけではなかったのか、様々な学校や会社を転々とすることになります。

 

まず、明治30年(1897年)に下谷(現在の台東区上野付近)尋常小学校へと入学しましたが、11歳の年に素行不良で退学処分を言い渡され、手を焼いた家族の手で奉公に出されます。

この後は学校へと戻ることなく様々な奉公先を転々としましたが、かねてからの素行が響き安定した職場を得ることはできませんでした。

志ん生の放浪は落語に関心を持つまでの少年時代がほぼそのままの期間に相当し、家族からも呆れられるようになっていきます。

 

素行不良に加えて少年ながら博打や酒に溺れるようになった志ん生は、ついに父の我慢を限界のものとしたようです。

そして、実家から勘当されて以降は生涯交流を断絶し、家族の死に目にも会うことはなかったと言われています。

 

落語家になると長い下積みを経てしだいに認められていく

実家を追い出された志ん生は芸に関心をもつようになり、しばしば素人の芸人集団に入り始めるようになります。

そして、明治40年(1907年)ごろには三遊亭圓盛という人物のもとで「三遊亭盛朝」を名乗ると、セミプロながら落語家としてデビューしました。

 

その後は何度か師や名前を変えながら落語家として生計を立てていくようになり、大正5年(1916年)ごろには二つ目(落語界の一人前)に。

大正10年(1921年)ごろには真打(一流の落語家)にそれぞれ昇進し、噺家としては早くから実力を認められています。

 

また、プライベートでも大正11年(1922年)には清水りんという女性と結婚し次々と子を設けるなど、私生活も充実しているかに思われました。

ところが、実力そのものは認められているはずの志ん生一家は極貧生活を余儀なくされます。

その理由は、当時の実力者5代目升亭小勝と対立してしまったことが原因です。

実力はあるものの愛嬌がなく出で立ちも異彩を放っていた志ん生は落語界で居場所を失い、彼が「なめくじ小屋」と自虐するボロ屋での生活を余儀なくされました。

 

それでも、実力そのものは認められていた志ん生は昭和7年(1932年)ごろになると日の目を見るようになりました。

昭和14年(1939年)には5代目古今亭志ん生を襲名し、売れっ子落語家としての地位を確立しています。

 

満州からの帰国後は東京落語会を代表する存在に

戦火が忍び寄る日本でも人気作家として好評を得ていた志ん生は、昭和20年(1945年)に陸軍の依頼を受け満州駐留軍の慰問係として現地に赴きます。

しかしながら、同年8月には戦争が終結したため引き揚げ難民となり、命からがらの生活を送りました。

しかし、ようやく満州からの帰還を果たした後は人気者として一気にブレイクし、寄席だけでなく広く普及していたラジオ番組への出演などで精力的に活動します。

相変わらず破天荒な生き方やスタイルが変わることはありませんでしたが、それがかえってカリスマとして彼の評価を高めていきました。

 

その後は昭和32年(1957年)落語協会会長に就任。

しかし、任期中に脳出血で倒れ、一時昏睡状態に陥ります。

最終的に回復し落語界へと復活しますが、後遺症で半身不随となっただけでなく落語のスタイルも大きく変化したとされています。

 

昭和42年(1967年)には勲四等瑞宝章を受章するなど芸術家として名声を極めましたが、昭和43年(1968年)の寄席と落語会が最後の出演となりました。

志ん生が一線を引いた理由として、高座で演目を間違えてしまったためと考えられています。

 

意志としては休養して高座に復帰したいと考えていた志ん生ですが、昭和46年(1971年)には妻と、同じく高座を退いていた盟友の8代目文楽を亡くしてしまい、気丈な彼も涙を見せたと伝わります。

その後、高座への復帰は叶わぬまま、昭和48年(1973年)に自宅で息を引き取りました。

 

【参考文献】
興津要『落語の風土』読売新聞社、1975年。
岡本和明『志ん生、語る。-家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』アスペクト、2007年。
美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』河出書房新社、2018年。

(筆者・とーじん)