人はそれを奇跡と呼んだ ~キスカ島撤退作戦~

制空権なし。制海権なし。米軍が支配するアリューシャン列島キスカ島には、約6000人に上る日本兵が取り残されていました。

1943年(昭和18)7月、米軍の艦隊・航空機部隊が包囲する中、取り残された日本兵を救う作戦が決行されます。

戦いになったら、キスカ島の日本兵だけでなく、救出に向かった部隊までもが殲滅される惧れのある危険な作戦でした。

そして、この作戦は、一人の男の決断に託されました。その男の名は、木村昌福

ここでは、世界戦史に残る前代未聞の撤退戦「キスカ島撤退作戦」をご紹介します。

 

太平洋戦争 アリューシャン列島

1941(昭和16)年12月に始まった太平洋戦争は、当初、日本軍が有利に戦局を進めていました。

しかし、1942(昭和17)6月に行われたミッドウェー海戦において日本軍が敗れ、戦局は日本の不利になっていきました。

そのミッドウェー海戦と同じくして行われたアッツ島攻略戦によって、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島が日本軍の勢力下に入ります。

この戦いで、アメリカは領土の一部が日本に占領されるという事態に陥りました。

 

アメリカ国民の士気に関わる事態と考えた米軍は、1943(昭和18)年5月、威信をかけた戦いを開始しました。

その最初の標的になったのは、アッツ島でした。

 

アッツ島の戦い

5月12日、米軍は11000人の兵力でこの小さな島に襲い掛かりました。

守る日本軍は2650人。

寡兵ながら激しい抵抗を見せたアッツ島守備隊は、5月30日に司令官山﨑保代以下総員が戦死を遂げ、アッツ島は陥落しました。

このアッツ島陥落によって、キスカ島は完全に孤立。キスカ島の日本兵の命は風前の灯となったのです。

 

北方軍司令官の樋口季一郎は、最後まで両島の兵の救出を訴え続けました

この時、日本軍の大本営は、この2島での戦いを放棄、つまりは、見捨てることを決定。

アリューシャン方面軍の司令官 樋口季一郎は、2島の日本兵の救出を強硬に主張しましたが、容れられませんでした。

そこで、季一郎は最後の希望として、アッツ島の日本兵の犠牲と引き換えにキスカ島の兵を救う作戦を大本営に認めさせたのです。

 

第一次撤退作戦 立ちはだかる米軍の厚い壁

この作戦は、潜水艦による救出作戦でした。

しかし、日本軍の潜水艦は米軍が簡単に探知され、決行するたびに、多くの損害を出す結果となりました。

この第一次撤退作戦は、800人の日本兵を救うに留まります。

この作戦は、結局中止されます。

撤退戦の舞台になったキスカ島

 

第二次撤退作成 全てを託された男 

第二次撤退作戦は、魚雷などを使用する艦艇・水雷部隊による救出作戦が考え出されました。

比較的船足の早い水雷艦艇を使用することで短時間で大人数の救出を目指したものです。

 

しかし、この救出作戦には重要な要素がありました。

それは、霧です。

この地域では濃霧がたびたび発生しました。

濃霧があれば、敵艦隊に発見されづらく、空爆の恐れもないからです。

 

しかし、これは同時に、視界ゼロの中での危険な航行を行うということを意味します。

この危険な作戦は、海軍の中で水雷艇を知り尽くした男・木村昌福に託されました。

髯がトレードマークだった木村昌福 ショーフクという綽名で親しまれていました

 

木村昌福は、海軍兵学校を最下位に近い成績で卒業し、出世など望めない立場にありました。

だからこそ、常に現場で指揮を執り、水雷部隊に欠かせない人物になっていたのです。

この木村昌福を中心に、キスカ島日本兵救出作戦、コードネーム「ケ」号作戦が開始されたのです。

 

木村昌福の判断

6月28日、「ケ」号作戦が発動されました。

艦には気象通報に従事するプロを携え、水雷部隊が潜水艦とともに北方軍の拠点・幌筵島を出撃します。

作戦決行日は、7月12日。

その前日 11日に艦隊は、キスカ島近くに集結しました。

しかし、12日は肝心の霧が晴れてしまい、その後も濃霧の発生はありませんでした。

木村は、15日、いったん撤退を命令します。

 

この決断に大本営は激怒します。「なぜ突入しなかった」「臆病風にふかれたか」などと轟々たる非難を木村は浴びます。

しかし、木村は一切意に介せず、艦艇で釣りをして過ごし、再びの濃霧の発生を待ちました。

 

7月22日、気象台が「キスカ島付近に25日に濃霧発生」との予報を出しました。

これを受け、木村は出航を命じ、「ケ」号作戦再開を命じます。

しかし、28日になると、再び霧が薄くなり始めます。

今、まだ霧がある中、直ちに作戦決行を求める声も上がる中、木村は気象班の「翌日、濃霧発生の可能性大」との報告を容れ、29日の作戦決行を命じます。

 

運命の7月29日

再び濃霧が発生する中、木村は午後0時、キスカ湾に艦隊を突入させました。

午後1時40分、湾内に投錨。

この時、湾内の霧が一時的に晴れる幸運に見舞われ、多人数の避難の時間短縮ができました。

 

この時、キスカ島の兵士に命じられたのは、歩兵銃といえども捨てること。

軽装での退却で時間を大幅に短縮を図りました。

この結果、5200人をわずか55分で収容するという異例の早さで作戦を終了し、キスカ島を後にします。

 

撤退途中で米軍潜水艦と遭遇するも、潜水艦側は米軍艦隊と誤認したため、戦闘にはなりませんでした。

8月1日、救出艦隊が幌筵島に帰島。

8月4日、気象観測に出していた潜水艦も全艦帰島し、総員無傷で奇跡の撤退戦は完了しました。

樋口季一郎は、この奇跡は「アッツ島の霊に守られた」と玉砕した人々を讃えています。

 

米軍によるキスカ島総攻撃

8月15日、米軍は艦艇100隻、総兵力35000名をもって、キスカ島に総攻撃をかけました。

激しい艦砲射撃を行ったのち、米軍は一斉に上陸を開始しました。

米軍は、アッツ島の玉砕を経験しただけに、キスカ島はそれ以上の死闘になると警戒していました。

 

しかし、上陸した米軍が見たものは、わずかに残された物資と数匹の犬だけでした。

この米軍側が一切関知できなかった完全無欠の撤退劇に、米軍の指揮官はこう呟きました。

「パーフェクト・ゲームだ」

そして、木村の決断と天候に恵まれたこの撤退作戦は、太平洋戦争中の奇跡と呼ばれ、今も語り継がれています。

家族に仕事の話をしなかった木村。家族はメディアから尋ねられて初めてこの撤退作戦に関わっていたことを知ったそうです

(筆者・黒武者 因幡)

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