忠臣蔵の最大の被害者 吉良義周

日本人が大好きな物語のひとつが、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)です。歌舞伎の演目として有名ですね。

ご存知の方も多いと思いますが、一応おさらいをさせていただきます。

 

元禄14(1701)年3月14日、江戸城松の廊下で赤穂藩(あこうはん・兵庫県)の藩主・浅野内匠頭長矩が、高家(こうけ・格式の高い家)の吉良上野介義央に切りかかった咎で即日切腹。赤穂藩は断絶します。

しかし、喧嘩両成敗の裁きが基本なのに吉良家には一切のお咎めなしでした。このことに不満を抱く赤穂藩の浪人たちが集まり、元禄15(1703)年12月14日に赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入り、主君の仇を討つ、という物語です。

忠臣蔵として語られているこの物語は、吉良上野介が悪役として描かれ、赤穂浪士たちをまとめた大石内蔵助らが、武士の鑑として称賛されています。


忠臣蔵 吉良邸討ち入りの場面

 

しかし、この事件や忠臣蔵の物語の中で、最大の被害者ともいえる人物のことはあまり語られていません。

本日は、とばっちりを受けてしまった吉良義周(きらよしちか)のことを紹介いたします。

 

義周、上杉家に生まれる

吉良義周は、貞享2(1686)年に米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれました。

父の綱憲は、吉良上野介の嫡男でした。

3代藩主・上杉綱勝が後継ぎなく亡くなってしまいました。

そこで、綱勝の妹を妻にしていた吉良上野介が、嫡男の綱憲に上杉家を継がせました。

そうすることで、謙信以来の武門を誇る上杉家を断絶の危機から救ったのです。

吉良上野介は、いわば上杉家の恩人だったのです。

 

一方の吉良家では、次男がいたのですが、亡くなってしまいました。

吉良家を継ぐ人物がいなくなってしまったことから、今度は上杉家から上野介の孫にあたる、義周を5歳の時に後継ぎとして養子に迎えたのです。

画像・上杉謙信

 

聡明な後継ぎ

吉良家が就いていた高家とは、どのような家なのでしょうか。

実は、吉良家は大名ではなく、将軍の直臣である旗本にあたります。幕府の儀礼や式典を司る家柄で、非常に重視されました。

この儀礼や式典を司るためには、高い教養が必要となります。また、上杉家は謙信以来の武門の家柄というのが誇りです。その上杉家に生まれた者として、武も疎かにできません。

義周は、文武両道に秀でようと努めました。上野介も、孫の成長を頼もしく思っていたことでしょう。

 

吉良家への批判強まる

そうしたなかで、松の廊下の事件が起こりました。

どのような理由で、浅野内匠頭が切腹し、赤穂藩が断絶したのか。なぜ、吉良家は何のお咎めがなかったのか。この理由は明らかにされませんでした。

そこで、この裁きに不信感を抱く人たちは、吉良家への不信と疑念の目を向けていきました。

こうした風当たりを考え、吉良上野介は、義周に家督を譲ります。元禄12(1702)年12月、義周17歳の時のことでした。

吉良上野介木像 義周の祖父であり、養父でもあります。

 

赤穂浪士と戦う

義周が家督を継いだ約1年後、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われました。

深夜に静かに吉良邸に侵入した赤穂浪士たちにより、吉良邸は大混乱に陥りました。しかし、義周は、自ら槍をとって、赤穂浪士たちと戦います。

でも、完全装備で討ち入ってきた赤穂浪士に対して不意を突かれて寝間着で戦わねばならなかった義周は不利でした。しかも、初めての実戦です。いわば初陣。この状況でも義周は、一歩も引かずに赤穂浪士と戦いました。

しかし、義周は、不破数右衛門(または竹林唯七)に斬られ、重傷を負い、意識を失いました。

その間に、赤穂浪士たちは吉良上野介を見つけ出し、首を討って、本懐を遂げたのです。

 

事件後の義周の処置は立派でした。

すぐに事件を幕府に届け出て、その後の処置を幕府に依頼しています。祖父・上野介を守れなかった悲しさと恥ずかしさを感じながらも、吉良家当主としてできる限りのことはしたのです。

 

義周に冷たい幕府の裁断

世論は本懐を遂げた赤穂浪士たちへの擁護論、同情論が沸き起こっていました。

元禄16(1703)年2月4日に、幕府は赤穂浪士たち46人(47人目の寺坂吉右衛門は、討ち入り後行方不明になっていたため46人)に切腹を命じました。

その同じ日、幕府は、義周に改易(かいえき)を言い渡しました。改易(かいえき)とは、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収する罰です。

その理由は、上野介が刃傷事件に際して、「卑怯な振る舞い」があり、討ち入りの際にも「未練」の振る舞いがあったからでした。

義周に関しては、何の落ち度もなかったものの「親の恥辱は子として逃れがたい」という理由で、改易にしたのです。幕府は事実上、世論に屈した瞬間でした。

しかし、それは、義周にとっては、とばっちりともいえるものでした。

 

義周が幽閉された諏訪高島城  長野県

 

信濃諏訪に流罪

改易をされた義周は、信濃の諏訪高島藩・諏訪家に流罪となりました。

諏訪家では、高島城の一角に幽閉されました。諏訪家では丁重に扱われたといいますが、義周は、3年後の宝永3(1706)年3月、失意のうちに21歳の若さで亡くなりました。

きっと赤穂事件がなければ、上杉家に生まれ、吉良家の後継ぎとして活躍していたであろう義周ですが、運命が大きく変わってしまったのです。

 

忠臣蔵として、赤穂浪士側の人たちが賞賛され、語り継がれている物語ですが、その陰で最大の被害を被った義周は、今、最期の地となった諏訪の法華寺で静かに眠っています。

諏訪市法華寺にある吉良義周の墓

 

(筆者・黒武者 因幡)