徳川を救った夫婦愛 皇女和宮と徳川家茂の愛

1861(文久元)年、中仙道を豪壮な行列が江戸に向かって進んでいました。

行列の長さは50キロ、人数は3万人にも及んだと言われています。

この行列は、孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王(以後、和宮)が、第14代将軍・徳川家茂に嫁ぐために京都から江戸に向かうものでした。

和宮の行列

 

この婚姻が、のちに徳川家を救う大きな要因になるとは誰も思っていませんでした。

今回は、皇女・和宮と徳川家茂の愛について、ご紹介いたします。

 

悲劇の皇女・和宮

ペリー来航以来、日本の政治は大きな混乱に陥っていました。

その原因は、江戸幕府と朝廷の対立です。

孝明天皇は、外国との通商に反対でしたが、国際情勢を鑑みて、徳川幕府で政治を担っていた大老・井伊直弼は、独断で外国と条約を調印してしまいます。

さらに、井伊直弼のやり方に異を唱える反対派を直弼は弾圧しました。

 

こうした経緯を受け、朝廷と幕府の関係は冷え込んでしまいます。

この状況を改善するために、井伊直弼らは和宮を家茂の正室に迎えようと考えました。

公武合体を図った井伊直弼

 

孝明天皇は最初渋っていたものの、1860(万延元)年3月、井伊直弼が暗殺されるなど、国内がさらなる混乱に陥っていく中で、国の行く末を考え、「朝廷と幕府の間の関係強化(公武合体)が必要だ」と和宮を家茂に降嫁させることを決断します。

この時、和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。

しかし、和宮は熾仁親王と別れ、京都から遠く離れた江戸に向かうことになったのです。

和宮14歳のことでした。

和宮の婚約者 有栖川宮熾仁親王

 

家茂との出会い

和宮は、江戸に向かうことに恐怖を感じていました。

と、言うのも、京都の皇族や公家の認識では、関東は武士という荒くれ者の土地であり、さらに、異人たちが跋扈する地だというものでした。

そのため、和宮は京都を出る際「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」という死も覚悟した歌を残したと言われています。(※別の時期に詠ったものという説もあります)

 

死を覚悟して江戸に入った和宮ですが、迎えた夫の徳川家茂は、考えていた武士の棟梁というような雰囲気ではありませんでした。

家茂は和宮に優しく接しました。

家茂は和宮が心細いだろうと配慮し、慣例を破って京都風の生活を許したり、たびたび手紙や贈り物をしたりと気を配りました。

 

そうした配慮や心の優しさを感じ、和宮は家茂に心を次第に許していきました。

結婚当時、家茂は16歳。

年も近く、話もしやすかったこともあるのでしょう。

やがて、二人の心は通じ合っていきました。

二人はお菓子が好きだったので、二人で甘いものを食べることもあったようです。

頑なだった和宮も、次第に家茂に心を開いていきました。

和宮を優しく迎えた徳川家茂

 

家茂は、その後、上洛し、義兄の孝明天皇に拝謁します。

孝明天皇も家茂に好感を抱き、ともに国難にあたろうと話します。

ここにおいて、公武合体はなったかに思われました。

 

家茂との別れ

しかし、激動の時代は、夫婦仲良く過ごすことを許してはくれませんでした。

長州藩が攘夷決行や内戦を起こしたため、幕府は長州征伐の軍を起こします。

一度は、屈服した長州藩でしたが、再び力をつけ、再度幕府と対立を深めていきます。

 

1865(慶応元)年、幕府は再び長州を征伐するために軍を起こし、将軍である家茂も出陣することになりました。

この征伐に家茂は乗り気ではなかったと言われています。

また、家茂は体があまり丈夫ではありませんでした。

 

和宮は家茂を心配しますが、将軍である家茂が出ないことには幕府軍の士気があがりません。

家茂は、和宮に「帰ってきたときの土産は何がよいか」と聞き、和宮は「京都の西陣織がいい」と応えました。

このお土産の約束を交わして、家茂は上方に出陣していきました。

 

上方からも度々、家茂は近況や和宮を気遣う文や贈り物などを届けました。

和宮は、家茂の手紙や贈り物を喜びながら、家茂の帰りを待ちわびていました。

 

しかし、江戸で待つ和宮の許に家茂が体調を崩したという知らせが入ります。

和宮は家茂の身を案じ、医師を大坂に向かわせ、寺で平癒祈願も行います。

 

ところが、その甲斐もなく、家茂は大坂城で亡くなってしまいます。

その知らせが江戸城にもたらされた数日後、和宮の許に荷物が届けられました。

送り主は、亡き夫である家茂でした。

中身は、家茂が和宮に約束した西陣織でした。

自分が死ぬ数日前に、和宮を心配する文とともに届けさせた品でした。

 

「自分も苦しい時なのに、私との約束を果そうとしてくれるなんて……」

 

和宮は、愛する夫の形見となった西陣織を歌一首とともに増上寺に奉納しました。

その歌とは、「空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」という家茂の死を心から悲しむものでした。

しかし、時代はさらなる試練を和宮に与えるのです。

和宮の肖像

 

和宮の戦い

家茂を信頼した孝明天皇も、1867(慶応3)年に崩御されました。

その後、朝廷は幕府との関係を解消します。

1868(慶応4)年1月に始まった戊辰戦争では、朝廷は討幕派の薩摩や長州側につき、幕府を倒す命令を出しました。

その倒幕軍の総大将は、かつての和宮の婚約者 有栖川宮熾仁親王でした。

和宮にとっては、実家とかつての婚約者が、嫁ぎ先を滅ぼしに攻めてくることになったのです。

 

熾仁親王は、やがて江戸でも戦になることを危惧し、和宮に京都に戻るように使者を使わしましたが、和宮はこの申し出を拒否します。

「私は徳川の人間です。徳川家を討とうとする相手からは徳川家を守らなければなりません」

ここから、和宮の戦いが始まりました。

 

和宮は各藩や朝廷の有力者に向けて、「徳川家に朝廷と戦う意思はないこと」「もし戦うならば、自分と徳川家と運命をともにすること」を伝える手紙を連日書き続けました。

江戸を攻めて和宮を死に追いやったら、討幕派が掲げる尊皇の旗印はただの飾りであったことになる、それを避けるはずという一点に賭けたのです。

 

1868(慶応4)3月、討幕軍は江戸に入りました。

そして、勝海舟西郷隆盛の会談が行われ、江戸城総攻撃の中止と開城が決まりました。

和宮の想いは通じ、やがて徳川家の存続も決まりました。

和宮の想いが、徳川家を守ることにつながったのです。

 

和宮は、戊辰戦争後、父である仁孝天皇陵に参拝したりと、静かに過ごし、1877(明治10)年9月、療養中の箱根で亡くなりました。

その遺言は、「夫の傍に葬って欲しい」というものでした。

 

政略に翻弄されながらも、家茂と出会い、優しい夫との愛を育んだ和宮。

その遺言通り、和宮は増上寺の家茂の墓の隣に葬られ、二人は動乱の時代では過ごすことができなかった静かな時を過ごしています。

 

増上寺の和宮と家茂の墓

(筆者・黒武者 因幡)

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