越後のラストサムライと称された河井継之助

〜越後のラストサムライと称された河井継之助 現代の理想の上司とも言える壮絶な42年〜

慶応4(1868)年1月3日、京都を舞台に起きた鳥羽伏見の戦いを皮切りに、1年4カ月にも及ぶ戊辰戦争が開戦となりました。

その中でも、新潟を舞台とした北越戦争で小規模の長岡藩を率いて、新政府軍を幾度となく窮地に立たせた人物がいました。

司馬遼太郎の作品「峠」で取り上げられ有名となった、長岡藩軍事総督河井継之助(かわいつぎのすけ)です。

今回は、河井継之助の42年の生涯を追っていきます。

 

長岡藩士の息子として生まれ、江戸へ遊学

河井継之助は文政10(1827)年1月1日、長岡藩士の河井代右衛門秋紀の長男として長岡城下に生まれました。

父秋紀は、長岡藩の財政を握る勘定頭として力を発揮する一方で、良寛と深い親交がある風流人でもありました。

 

幼い頃より継之助は、大の負けず嫌いで意志の強い少年でした。

長岡藩校の崇徳館で学び、陽明学と出会います。

 

嘉永5(1852)年、26歳の継之助は江戸へ遊学し、儒学者の古賀謹一郎の久敬舎へ入門し、入門中に佐久間象山からも学んだと言われています。

長岡へ戻った後、長岡藩10代目藩主牧野忠雅に意見書を提出し、それが忠雅に認められ28歳で評定方随役に抜擢されました。

しかし、藩主独断での人事に反感を持った家老など上級役職からの強い風当たりを受け、2カ月弱で継之助は評定方随役を辞職しました。

長岡市の河井継之助記念館(河井継之助生家跡)にある等身大パネル。身長は150㎝と小柄だが、眼力の強みから只ならぬ威厳を感じます。

 

再び遊学し、山田方谷と出会う

安政5(1858)年に家督を継ぎ、翌年安政6(1859)年に継之助は再び江戸へ遊学し、古賀謹一郎の久敬舎へ再入門しました。

そこで修学を積んだ後、備中松山藩の山田方谷の教えを請うべく西国遊学への旅へ出ます。

継之助は、山田方谷のもとで「経世救民(=世の中を治め、民衆を苦しみから救済すること)」の教えを請けました。

 

山田方谷は農民出身であり、家業と並行しながら学を修めるなど、勤勉家でもあり努力家でもありました。

そこでの経験が、備中松山藩の藩政改革へと繋がってたと、継之助も肌身で感じたとされています。

山田方谷のもとを去り、九州へ知見を広めに行き、江戸や横浜で過ごし長岡へ帰郷しました。

山田方谷肖像。河井は山田と出会ったことで、人生の転換期を迎えることとなります。

 

文久2(1862)年に11代目藩主牧野忠恭が京都所司代に就くと、継之助も京都詰を命じられ翌文久3(1863)年に京都へ上洛します。

4月下旬には攘夷実行が決定されたのを機に、忠恭は京都所司代の辞意を申し出、6月に江戸へ戻りました。

しかし、9月に老中に任命されると、継之助は公用人を命じられ江戸詰となります。

その際、分家の常陸笠間藩藩主の牧野貞明を罵倒し、その責任を取って公用人を辞し長岡に帰藩しました。

 

継之助の躍進劇

慶応元(1865)年に、牧野忠恭に抜擢され外様吟味役に再任すると、3か月後には郡奉行に就任し、そこから継之助は藩政改革に着手することとなります。

賄賂・賭博・遊郭などを廃止し、河税や株などの特権を廃止して、藩内における産業振興の促進を図りました。

また、北前船を用いて地産物を京阪へ持ち込み、多額の利益を獲得したのです。

 

継之助が郡奉行に就任した当初は、長岡藩は12万両の赤字を抱えていましたが、3年足らずで11万両の剰余金を積み上げるまでに、長岡藩の財政を回復させたのです。

その財力で、藩士全員にミニエー銃を所持させ、兵学所を整備しフランス式兵制を導入するなど、長岡藩は近代武装化し、他藩からも注目される存在となっていきました。

 

戊辰戦争勃発と奥羽越列藩同盟への加盟

慶応3(1867)年に、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、江戸幕府が終わりを告げます。

同年12月に、朝廷は王政復古の大号令を発出し中央政権設立を加速させていきました。

 

長岡藩は譜代の名門として歴代藩主の中では3代にわたり老中を務めるなど、幕府からの信頼はとても厚かったのもあり、薩摩・長州など討幕派とは対立する関係でした。

継之助は、11代藩主牧野忠訓に同行し新政府軍に建言書を提出するも受け入れられませんでした。

そして慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いの開戦をきっかけに、戊辰戦争が勃発するのでした。

 

閏4月26日、会津藩兵らと新政府軍が雪峠で対峙し、新政府軍が勝利を治めたのと同時に、継之助は家老上席兼軍事総督に任命され、長岡藩の全権を委任されました。

長岡藩内では新政府軍に恭順する意見も飛び交う中、継之助は一蹴し勤王佐幕どちらかに偏らず、双方に尽力するのが第一と藩士らを説き伏せました。

 

5月2日、新政府軍との交渉に臨むべく小千谷の慈眼寺に赴きます。

継之助は、新政府軍の上級職を担う人物との交渉を期待していましたが、相手は土佐藩の岩村精一郎でした。

藩主が記した嘆願書を提出し、会津藩との仲介に名乗りを挙げ時間の猶予を求めた継之助でしたが、岩村は継之助の行動を時間稼ぎと捉え話に耳を傾ける事無く、交渉が決裂しました。

 

交渉が決裂したことで、新政府軍と戦うしかないと腹を括った継之助は長岡市摂田屋の光福寺で藩士らを前に新政府軍との徹底抗戦を主張し、やがて奥羽越列藩同盟に加盟し北越戦争の火蓋を落とすこととなりました。

長岡市摂田屋にある光福寺。ここで河井は開戦の決意表明をしました。

 

長岡城落城から奪還し、そして再落城

北越戦争が開戦し継之助は、新政府軍が占領していた榎峠を奪還するため計画を練り、5月10日、信濃川の増水時を狙い、榎峠に怒涛の如く攻め勝利を飾り、榎峠の南東に聳える朝日山に要塞を構えることとなります。

再度榎峠を奪還すべく、攻めてきた新政府軍参謀代理の時山直八をこの時討ち取っています。

 

しかし、新政府軍が濃霧を利用し長岡城に攻め入ると、榎峠と朝日山に主力の殆どを待機させていた長岡藩はたちまち総崩れとなり、5月19日に長岡城が落城しました。

加茂まで撤退し、初めて奥羽越列藩同盟による軍議が開かれ、継之助は見附を占領した後長岡城を奪還する旨を主張します。

 

6月2日、今町の戦いで継之助自ら陽動作戦を行い、ゲリラ戦に持ち込んで新政府軍を撤退させることに成功し、その勢いのまま長岡城に向けて進軍します。

6月7日から始まった福井・大黒周辺の戦いは両軍ともに苦戦を強いられ、状況を打開できずにいました。

そこで継之助は、魔物が棲むと恐れられていた、大湿地帯であった八丁沖を偵察させ、その情報をもとに長岡城を奪還する作戦を計画しました。

 

7月24日、継之助は600名を超える長岡藩兵を率いて、八丁沖を渡りはじめ翌25日の早朝に対岸に上陸すると一斉に新政府軍へ襲撃し、不意を突かれた新政府軍はたまらず撤退し、2カ月ぶりに長岡城を奪還しました。

この時ばかりは継之助も感激の涙を流し城内へ入ったと言われており、城下では長岡藩兵に酒樽を提供して歓迎していました。

 

それも束の間、新政府軍の逆襲を受け、継之助は対抗すべく自ら兵を集めようとした折、左膝に弾丸が命中し重傷を負い指揮が執れなくなったのです。

やがて長岡藩兵の士気は下がり、戦況は悪化の一途をたどり、奪還して僅か4日後に、新政府軍により再落城となりました。

今町の戦いの舞台となった見附市にある永閑寺。新政府軍に勝利した旧幕府軍は、ここに火をつけたため付近は火の海に包まれたと言われています。

 

八十里越と継之助の最期

長岡城で負傷した継之助は担架に乗せられ、見附・栃尾を経由し八十里越の越後側の起点である吉ヶ平に辿り着きます。

実際は八里の道のりではあったものの、当時は険しい難所として知られ、一里が十里に感じられるほどだったと言われています。

継之助は八十里越を進んでいく道中に「八十里 こし抜け武士の 越す峠」と自らを嘲笑うかのような句を詠ったのでした。

 

八十里越を無事に越えることは出来たものの、継之助が負った傷はとても深く、手の施しようはありませんでした。

8月16日、会津塩沢の医師・矢沢宗益宅にて42年の生涯を終えました。

 

福島県会津若松市にある河井継之助の墓です。只見で亡くなった河井は、当初この地に埋骨されました。

 

会津若松市の遺骨は、後に長岡市東神田の栄涼寺に移されます。写真は栄涼寺にある墓で、周りには削られた跡が複数ヵ所あり、当時の長岡市民が開戦の火種となった継之助に対する怒りが窺えます。

 

幕末の動乱を駆け抜け、中立国家を目指すべく戦った河井継之助。

その生き様は明治の世を生きた、三島億二郎・外山脩造らに繋がり、彼らの功績が現代日本にも根付いています。

河井継之助は、現代における理想の上司と言えるのではないでしょうか。

(筆者・風来坊 Ka-z)