石原莞爾は日米開戦を予見していた英才だった!

戦前の日本において、「関東軍」というと張作霖爆殺事件や満州事変など、その後、日本が右傾化する要因を作った部隊として評判は甚だしく悪い。

私も以前は、満州事変を指揮した石原莞爾(いしわらかんじ)に極右的な軍人というイメージしか持っていなかった。

 

しかし最近になって、日本は本当に太平洋戦争を回避できなかったのだろうかという疑問から近現代史を改めて詳細に調べて見ると、石原莞爾の「別の顔」が見えてきたのである。

写真・石原莞爾

 

優秀だが暴れん坊だった幼少期

石原莞爾は1889年1月18日に山形県の鶴岡に生を受けた。

幼少期は病弱ながら、暴れん坊であったと伝わる。

幼少の頃から軍人を志し、近所の子供を集めては戦争ごっこをしていて、口癖は「将来は陸軍大将になる」であったらしい。

 

温海尋常高等小学校尋常科から仙台陸軍地方幼年学校に至るまで、学業成績は首席であり、素行はともかく知的能力は抜群に優れていたという。

 

陸軍大学校を次席で卒業

仙台陸軍地方幼年学校を卒業した石原は陸軍士官学校を経て、陸軍大学校に入学する。

陸軍士官学校では生活態度が悪かったこともあり、卒業成績は6位であった。

ちなみに、陸軍大学校時代の成績は首席であったというのだが、何らかの事情で得点が操作され次席での卒業となったという。

 

この頃石原は軍事学以外に南部次郎より薫陶を受け、アジア主義に傾倒していく。

その他、宗教・歴史学・哲学の勉強にも熱心で、特に日蓮宗の熱心な信者であったことで知られる。

ドイツ留学後の1927年に書かれた、『現在及び将来に於ける日本の国防』には既に満蒙領有論の着想が見える。

 

この着想は単に満蒙を領有することで、国内の不況などの問題を解決することのみを目標として得られたわけではないようだ。

石原は第一次世界大戦でヨーロッパが弱体化したのを見て、アメリカが西洋の覇者となることがわかっていた。

アジアでは、太平洋を隔てた日本が東洋でいち早く近代化に成功し、ロシアとも対峙できる唯一の強国となったことで、いずれ日米は太平洋の覇権をめぐって激突するというビジョンが石原には見えていたのである。

 

この戦争では航空機を主力とした殲滅戦となり、都市を一瞬で壊滅させられる兵器が使用されるということも予見していることには驚かされる。

日本の取るべき道は満州の開発を進めて、中国等のアジア諸国と同盟を組んでアメリカと対峙できる実力を蓄えるべきだというのが石原の持論であった。

これが所謂「東亜同盟論」である。

 

望まなかった日中戦争の拡大

1928年石原は関東軍作戦主任参謀として満州に赴任する。

自らの最終戦争論を基に、1931年石原は板垣征四郎らと満州事変を実行に移す。

このとき、23万の張学良軍をわずか1万数千の関東軍で撃破するという離れ業をやってのけた。

 

東亜同盟論からもわかるように、石原には中国を侵略しようとする意志はなかったものと思われる。

それを裏付けるように、1937年の盧溝橋事件に際し、戦線を拡大することには強硬に反対している。

おそらく、石原は武力をもって満州国を建国することも、本当は避けたかったのではないか。

 

しかしながら世界恐慌の煽りを受け、昭和恐慌に喘いでいた日本を復活させるためには、蒋介石と交渉してなどという悠長なことはしておれなかったのだろう。

しかし、この対応が日中開戦の遠因となってしまったのは皮肉というしかない。

 

東條英機との確執

石原莞爾東條英樹が嫌いであったことは有名な話である。

その理由が「無能であるから」というのだから見も蓋もない。

確かに東條は石原のような「天才型」ではなく、どちらかというと「秀才型」である。

そして、人情にも厚く、陸軍歩兵大佐時代には兵卒を非常に大事に扱い、その生活環境から食事にまで気を配るという異例の配慮を見せたという。

 

しかも、「カミソリ東條」の異名を取るほどの切れ者で軍官僚としてはかなり有能だったとされる。

才気煥発で根回しなどしない「分裂型天才」である石原には東條のことが実直だが、周囲に配慮ばかりしているつまらない実務家にしか思えなかったのだろう。

その証拠に東条が第40代内閣総理大臣となった後、石原と面談する機会があったが、石原は口を開くなり、「あなたは戦争の指揮には向かないから総理を辞職しなさい。」といって東条を怒らせたという。

 

あとがき

石原は一貫して日米開戦に反対であったという。

持論の最終戦争論によれば、石原は日米激突を1970年代位に想定しており、それまでに十分国力を高めるべきであるという考えであった。

よって、1940年代の開戦など論外だと思うのは当然と言えば当然であったろう。

 

実際、1941年当時総力戦研究所において日米決戦のシュミレーションが行われたが、結果は「日本必敗」というものであった。

また、石原が太平洋戦争を避けるべく策定した打開策は奇しくもアメリカ側の最後通牒である「ハルノート」とほぼ同じ内容であったという。

東條はハルノートを目にするや「これでは降伏するも同然」と述べ、開戦に舵を切ったとされる。

もし、石原莞爾が首相であったなら太平洋戦争は防げたかもしれないと思うと、何ともいたたまれない気持ちになってしまうのである。

(筆者・pinon)