石川数正の生涯に迫る!重臣ながら突如として徳川家を出奔した人物

徳川家という一族は、家臣団の結束が極めて強固であったことでも知られています。

戦国時代は「生き残るため」という名目があったため、当時としても褒められたことではなかったものの裏切り行為はしばしば確認されました。

そうした時代においても主君への忠誠心が強かったことから、徳川家臣団は「家康の犬」と蔑まれるほどに忠実な家臣たちでした。

 

しかし、その徳川家を突如として裏切った人物が存在します。

彼の名は石川数正(いしかわかずまさ)といい、古くから徳川家に仕えた名門の出身ながら突如として主君を裏切ったのです。

この記事では、数正の生涯と出奔の理由を解説していきます。

肖像・『長篠合戦図屏風』より石川数正

重臣の石川家に生まれ、家康に尽くす前半生を送った

数正の生年は不詳ですが、一説には天文2年(1533年)に生まれたとされることもあります。

彼が生まれた石川家は古くから松平家(徳川家)に仕え続けてきた重臣の一族であり、数正もまた幼少期から彼らに仕えるようになりました。

 

家康との付き合いは古く、まだ幼少の時期にあった彼が人質として今川家に連れていかれる際、従者として同行を果たしているほどです。

こうした縁もあり、彼は家康の信頼を得て主に外交面で活躍を見せました。

家康の独立に際して今川家との交渉や織田信長との関係づくりに奔走しており、家中においても彼の能力は大変高く評価されていたのでしょう。

 

ところが、家康の生涯においても大きなハイライトとなった三河一向一揆が勃発し、徳川家が分裂したことで危機的状況を迎えてしまいました。

家臣の中でも一揆衆に味方し家康と敵対する者も現れ始めましたが、数正はあくまで主君への忠義を貫いています。

 

この際は彼の父が一揆衆に加わったともされており、数正の決断は相当な覚悟を必要とするものだったのかもしれません。

さらに、彼は家康への忠義を表明するために改宗するほどの心意気を見せ、少なくともこの時点では家康を裏切ることなど微塵も考えていなかったように思えます。

 

突如として家康を裏切ったが、その動機はハッキリしていない

一揆に際しても忠節を貫いた結果か、永禄12年(1569年)には徳川領内西部を取りまとめる「西の旗頭」という役職を引き継ぎ、さらに天正7年(1579年)には岡崎城主の松平信康が自害したため、岡崎城の城代を任されるまでになりました。

このように、家康からも筆頭家臣として扱われていた数正。

 

しかし、天正12年(1584年)に家康秀吉の間で勃発した小牧長久手の戦いに関して、後の裏切りに繋がるような不和が生じていたと指摘されます。

戦の最中、秀吉方から和議の申し入れがあったため、家康は諸侯を集めて軍議を開いたと伝わります。

そこで家臣筆頭の数正は「軍勢の差が大きく、和議を受け入れるべき」と家康に伝えましたが、彼の弱腰な姿勢は家康の機嫌を悪くしたともいわれています。

 

もちろんこの出来事だけが直接の原因ではないと思われますが、仮に事実であれば家康に反感を覚えたとしても不思議ではありません。

また、世間のイメージとは異なって、家康にはしばしば「猪突猛進」すぎるところが確認できるので、個人的にはいかにも有り得そうな話だと感じます。

 

そして、天正13年(1585年)には上記の出来事が影響してか、小牧長久手で交流のあった秀吉のもとへ出奔してしまいました。

これ以降は、とうとう家康のもとへと帰参することなく豊臣家臣として生涯を送ることになります。

 

この出奔は我々にとってだけでなく家康にとっても「サプライズ」だったようで、筆頭家臣として徳川家の内情を正確に把握していた数正から情報が流出することを恐れて軍制改革を実施したというエピソードも残されているほどです。

 

晩年は豊臣家臣として過ごすが、江戸時代に石川家は没落

豊臣家臣となった数正は、小田原攻めの完遂後に信濃国8万石の領地を与えられる大名となりました。

晩年は専ら国内の整備に注力し、領内に松本城を築城するとその城下町の振興に貢献したとも言われています。

 

最終的に、数正は戦国時代の終わりを見ることがないまま文禄2年(1593年)に亡くなっています。

その後は自分が裏切った徳川の時代が訪れることを考えると、彼がこの時期に死んでしまったことはむしろ幸運であったのかもしれません。

 

しかし、石川家自体は関ケ原で家康に味方したため戦後も存続を許されることになりました。

子の石川康長は父と同じく信濃国を領有しましたが、藩の規模に見合わない工事を敢行するなどの点で幕府に問題視されていたようです。

 

そして、慶長18年(1613年)に石川家と親戚の立場にあった大久保長安という人物の子どもたちが次々と処刑される「大久保長安事件」が勃発し、石川家も連帯責任を取らされる形で数正の息子全員に切腹が命じられ、御家断絶という憂き目を見るのでした。

 

【出典】
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。
柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。

(筆者・とーじん)